しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

禅定と正念

以前の記事で、Beyond Mindfulnessを読んだという記事を書いた。

内容についてさほど言及していなかったけれど、この前作『マインドフルネス』がヴィパッサナー瞑想の本だとすると、この本はサマタ瞑想の本だった。

仏教の八正道でいう、正念がマインドフルネスやヴィパッサナー瞑想にあたるというのは知識として知っていたけれど、サマタ瞑想が正定にあたるというのは知らなかったし *1 、八正道への理解を深める良いきっかけになった。

この本は禅定によって正定を成し遂げて正しく集中するための本でもあり、正念、つまりマインドフルネスをより深く理解する、一周回って改めて体感するための本でもあると感じた。タイトルからしてきっとそうなのだろう。

「気づき」の重要性はマインドフルネスによって一般に浸透しつつあるとしても、なかなか「正しい集中」の存在を教えてくれる本というのはなかなかないので、平易な英語で国際的に出版されていると考えても、本当に貴重な本だと思う。

マインドフルネスはあえて宗教的な部分を排除することによって、宗教の垣根を超えて心理学的実践法としての科学や道具に "昇華" されたと自分は思っているのだけれど、きっとこうした本が増えていけば、マインドフルネスと同様に「禅定」も、集中し心を穏やかにするための概念や道具として、国際的に浸透していくのではないかと思った。

その際やはり問題になってくるのは、宗教性をどう扱うかというところ。

このブログでも、自分自身も常に迷いがある部分であって、自分もマインドフルネスが宗教性の排除された道具であったからこそ入門することができた面がある。やはり自分自身が欧米の影響を強く受けている面は否定できないし、マインドフルネスでさえ逆輸入されてはじめて興味を持ったため、極端にいえばただ日本にいただけでは深く禅に興味を持つということはなかっただろうと思う。

自分は、マインドフルネスをきっかけに禅というものに触れて、元々田舎育ちでお地蔵様や八十八ヶ所詣りなどに親しみがあったのもあるし、他方で日本の神道に代表される八百万や自然崇拝の考えかたもなんとなくスッと入ってくるものがあり、日本独自の仏教感や神仏習合というか、様々な日本の文化を自然と体感しているけれど、なかなか全てがそうともいかないだろうと思う。

自分の友だちや知り合いにもキリスト教徒の人は多くいたし、ミサやゴスペルもとても楽しかったし、もしその人達が宗教性の違いのためにマインドフルネスや禅定を心の落ち着きに利用できないというのであれば、なんだかもったいないと思う。(祈り自体が似た性質があるので、もう十分なのかもしれないけれど。)

ただ、自分が禅をきっかけにして八正道を一つ一つ知るようになるなかで、坐禅や瞑想というものが単独で独り歩きする危うさも知った。その意味で、危うさはもちろんあるけれども、なかなか宗教性を切り離しにくい面をうまく切り離した点で、ジョン・カバット・ジン先生は偉業を成し遂げたものだと思う。*2 *3

切り離されたといっても、一度興味さえもてば、多くの場合でまるでパズルのピースのように自然と引き寄せ合うはずなので、自分のように何かを一つのきっかけとして日本や海外の文化を知るというのはとても良いことだと思う。

その観点からすると、禅定というものを宗教性を排除して一つの単なる概念や道具としていくにはどうしたらいいか、あるいはサマタ瞑想などにおいて既に成し遂げられていたりするのか、今後少しずつ考えたり調べていきたい。

*1:これに関しては諸説あるようなので詳細は各人の見解に任せたい。

*2:余談だけれど、Study Buddismもうまく宗教性を切り離してあると自分は感じていて、哲学・科学の部分をうまく分離して解説されている。

*3:ちなみに坐禅と瞑想の違い、禅とマインドフルネスの違いは、WIRED.jpの藤田一照さんへのインタビュー動画 がポップでとてもわかりやすい。