なにもしないことの大切さ、難しさ
年の終わりに
今日は仕事納めだったので、少し今年を振り返るためにも記録を一つ。
タイトルの通り、今年は「なにもしないこと」の大切さと、難しさを痛感した一年だった。
今年は転職して、スタートアップ企業でエンジニア兼テクニカルマネージャーとして働いている。特にスタートアップというのは立ち上げ期は非常に忙しい。
エンジニアとして仕事をしている期間は、自分の人生の中では比較的長いのだけれど、ソフトウェアエンジニアというのは知能労働と言われるだけあって、脳疲労が大きいと感じている。オフィスワークやリモートワークによる運動不足も相まって、他の職業よりも脳疲労は深刻であると思う。
自分はその脳疲労の軽減のために数年に渡ってマインドフルネスを実践しているのだけれど、今年はその大切さと難しさを同時に実感した一年だった。
(なお、脳は疲労しないと一説ではいわれているのだけれど、ここではわかりやすさのために脳疲労という言葉をあえて使う。文章中の定義としては、頭が疲れたと感じる疲労感や、いわゆる神経を使ってつかれたと感じるときの疲労感で、ぼーっとしたり少し酸欠に感じるような状態のことを、身体疲労感と対比して脳疲労と定義することにする。)
なにもしないって可能?
改めて、なにもしないことというのは本当に難しい。今この状態も、パソコンに向かって文章を書いているわけであって、そもそも、いくらただ座って無心で只管打坐をしていても、呼吸は止まることはないし筋肉は動くのであって、止まることはない。
では、なにもしないなど可能なのだろうか。
ただの言葉遊びだと思われるかもしれないけれど、自分自身は「なにもしない」ということは、次のように捉えている。
- やらなければいけないことに追われているとき、一瞬ふと立ち止まって深呼吸するような瞬間
- 衝動的にやりたいことに駆られているときに、ふと客観的に自分をみる瞬間
- あえて能動的に身体を動かそう、考えようとしなくても、身体が自然に自律している様子を感じる瞬間
つまり、自分を少し俯瞰的にながめて、自分自身なのだけれどまるで他人をながめているような、そんな瞬間のことだと自分は思っている。
こうやって言葉にすると、じゃあ自分を眺めているときにいろんなことを考えてしまうんじゃないかと言われてしまうけれど、その通り。
ただしここで重要なのは、自分で考えようと思わなくても自然に思考が溢れ出してしまって止まらないのであって、自分自身はそれをまるで映画のワンシーンでも見ているかのようにただ傍観している、というところが通常の思考とは違っている。
これはいわゆる瞑想状態やマインドフルネスといわれるものだと思うのだけれど、この瞑想状態を言葉で定義するというのは非常に難しく、実態としては身体や思考は多くの自律的な事象に溢れていて、とめどない。それでも、自分はあくまでそれを傍観しようと努めている、というのが瞑想状態だと自分は考える。
身体にすべてを委ねる勇気
前節の定義を「なにもしない状態」とすると、なにもしないというのは言い換えれば、「自律して動いている自分にすべてを委ねて傍観する」ということだし、「無意識を意識する」というような状態であるともいえる。
こうして言い換えてみれば、瞑想というのがいかに勇気が必要で、難しいことをしようとする行為なのか、少し想像しやすいと思う。
そもそも伝統的な瞑想というのは、自分のように何らかの目的をもって行うべきではないといわれているし、さらにいえば仏教など宗教的な支えがない状態で瞑想をするというのは、とても難しい。
特に後者について、瞑想によってすべてを放棄したような無防備な状態になると、人間というのはとても弱い。自分の一番弱い部分と(体感上)長時間向き合うことになる。そうなると、なにかの信条にすがりたくなるのが人間というもので、理屈が欲しくなるし根拠が欲しくなる。
そんないろんな葛藤を乗り越えて行う、「なにもしない」ということは、それだけ大きな効果がある。
まず自分がいかに常に「なにかをしているか」というのが理解できるし、力を抜くということの難しさを知る。
そして、自分自身が無に近づけば近づくほど、逆にいろんな音や感覚が気になるようになるので、良い意味では周りを感じることができるようになる一方で、普段より何倍も高くなった感受性でいろんな感覚を受け止めなければならない。
つまり、自分が思うに、瞑想は結局のところは訓練なのであって、瞑想状態で気づいたいろんなことに対して自分自身が明確に自覚をすることで、それが "自然と" 修正されていく、それが大切なのだと思う。
だからこそ瞑想ではなにも目的を持たなくても "自然と" いろんなことが解決する。もちろん解決することもあれば酷くなることもある。それも含めてすべてを自然に委ねるのだから、とても勇気が要る。
もし、自然な状態というのが最も良いのだと「心から信じることができれば」、きっと瞑想はうまくいくし、そうでなければ葛藤が多くなる(それも良い修行)。ただ、人間というのは自然と意志をもっていろんなことを変えていく動物なので、そうしたこともすべて自然に含めてとらえるのかなど、瞑想をしているとまるで禅問答のようないろんな悩みも浮かんでくる。(そしてそれらが浮かんでは消えていく様子を俯瞰して… 以下無限)
それでも、いろんなデメリットをもってしても、なにもしないということはとても大切だと自分は思う。
最初に戻るかもしれないけれど、本当になにもしないというのは難しく、人間は自然となにかをしてしまうし、常に思考や欲にまみれてしまうのだから、"意識的になにもしない" というのは大切であって、自分を客観視する機会を多く作って気づきを増やすというのは常に大事だと思う。
まとめ
前節の最後で、「なにもしない」のに "意識的に" とか出てきた。なにもしないのに意識的にとか能動的にとは…。メタ思考というのはこれだから難しいし、これこそが瞑想を言葉で説明することの難しさを示している。この禅問答自体がもう瞑想なのかもしれない。
今年一年は、本当にこういったいろんな気づきに囲まれた一年であったと思うし、気づきに悩まされ振り回された一年であったとも思う。
それでも、気づきに満ちている状態、マインドフルな状態を良い状態だと信じることができるなら、たぶん「なにもしないこと」のいろんな効果を享受することができるのだと思う。
こうして、それ自体に信心がいるのだとすると、やっぱりマインドフルネスは宗教とは不可分なのではと思うこのごろ。