瞑想は銀の弾丸ではない、けれど
前の記事 で、なにもしないことの大切さを書いたけれど、今年常日頃考えていた、「瞑想は銀の弾丸ではない」ということについて書いてみようと思う。
銀の弾丸と二元論
普段エンジニアとして働いているからか、「銀の弾丸」という言葉をよく耳にする。銀の弾丸 (Silver Bullet) というのは、何かを解決するための特効薬的な打開策のことで、特に技術分野では新技術が現れたときに「今度こそ銀の弾丸か?」「やっぱり銀の弾丸などなかった」など、主に否定的な意味合いで使われる。
色即是空、という言葉があるけれど、すべてのものは多面的であって、一つのように見えて一つではないし、人間の思考のように二元論的ではない。
それでも二元論的思考はとても便利ではある。自分も長い間、『鋼の錬金術師』でも出てくる「等価交換」という言葉を座右の銘にしていて、
人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには同等の代価が必要になる。
という作中の言葉をずっと胸に刻んでいた。
今でも等価交換というのは間違いではないと思うし、化学式でも質量保存の法則が登場するように、物事の根本原理の一つでもある。
ただ、等価交換という言葉を信じすぎてしまうと、まるで人間の思考や言葉も一種の化学式のように見えてきてしまう。本来は一つの言葉として封じ込めることはできないような複雑な概念が、元素や原子のような完全なものに感じられ、そこに二者択一的な思考を当てはめてしまうといろいろと過ちが起こる。
それと同じで、一つのことを根拠なく信じてしまうということは、何においても失敗に繋がるし、ある現象で適用できる完全な法則が、別の現象でも適用できるとは必ずしも限らない。
可処分時間
瞑想においてもそれと同じことがいえる。ギアをニュートラルに入れるということが非常に少なくなった現代社会で、瞑想やマインドフルネスというのが一つの盲点であって、一種の特効薬的だということは自分も信じているものの、瞑想ですべてが解決するということは決してない。
だとしてもなぜ、瞑想やマインドフルネスが効果的だと思えるかというと、可処分時間という考え方がある。
Netflixやソーシャルゲームなどで、いかに顧客の可処分時間を自社の製品に向けてもらうか、という争奪戦が常に繰り広げられている。サブスクなんかはその典型で、顧客が本来持っている自由時間をどれだけ使ってもらえるかが、売上の死活問題になっている。
ただでさえ忙しい現代社会は、大企業によって可処分時間がゼロになるまで搾取されている。
これは大企業に限ったことではないし、誰かの自由時間を自分のために使ってほしいと思うのは人間の自然な考えだと思うのだけれど、大企業はそれを緻密な計算のもとに気づかないレベルで実行してくるので、気づくのに時間がかかる。
もちろん、先程の等価交換が代表的なように、何かを対価に与えてくれるからこそ少ない可処分時間を処分しようと思えるのであって、選択の自由は常に消費者にある。それだけは資本主義社会の救いだと思う。
話が少しそれてしまったけれど、可処分時間が知らず識らずのうちに削られているということを認識するのに、瞑想はとても有効な手段だと思う。
気づくことの大切さと残酷さ
人間は普段「オートパイロット状態」で動いていることが多くて、その自動運転状態を見直す機会というのはとても少ない。自分自身、パソコンをしているときはよく猫背になってしまうのだけれど、集中しているときにその事実に気づくというのはとてもむずかしい。
少しずつ休憩をいれるというのも有効な手段で、休憩中は使う筋肉や思考を別にしておくというのもとても良いけれど、無意識にそうしているにもかかわらず、なんだか調子が悪いなと思うとき、瞑想は役に立つ。
瞑想は「ギアをニュートラルに入れる」という表現がピッタリだと自分は思っていて、瞑想中はただ自分が自律的に無意識的に行っている事柄を、ただただ客観的に観察する。それができていれば、いわゆる只管打坐のように、ただ座っている状態でなくても瞑想はできる。
これが歩く瞑想とか食べる瞑想のように、瞑想にいろんな種類がある所以(ゆえん)。例えば『鬼滅の刃』の作中では「全集中の呼吸」を主人公は24時間やっているというが、瞑想はいつでもどこでもできるので、24時間瞑想状態というのも可能であるし、それに試みようとする「接心」という修行が禅寺では行われていたりする。
ただ、ここからが本題なのだけれど、前の記事でも書いたように、瞑想というのは非常に勇気のいることで、非常に強い精神力を要する。
「ギアをニュートラルに入れる」というのはどういうことかというと、自分や周囲の一挙手一投足をすべて観察していくということに他ならなくて、ただ事実の観察に思考の100%のリソースを割くということになる。だから思考は自然と少なくなるし心のざわつきは減っていく傾向にあるのだけれど、必ずしもそうとはいえない。
調子の悪いときに瞑想を行うと、その辛い状態と事実に向き合わなければならなくなるし、それに伴うウジャウジャとした思考の渦も普段よりとても強い。そうした状態に真正面から向き合うというのは、とても辛い。
だからこそ、瞑想はできるだけ心身が落ち着いたときに行うべきだと思うし、危険のない安心なところで行ったほうが良い。
瞑想を行うと、普段意識することのない非常に細かな自分の機微に気づくことができて、感覚が普段より精緻になるので、うまくいけばごはんも美味しく感じるし、布団も暖かくフワッと感じることができる。でもそれはつまり、汚い自分の部屋はいつもより汚く感じるということだし、異臭にもすぐ気づくということ。危険察知という意味ではとても良いかもしれないけれど、良いことばかりではない。
それでも、前節で書いたように、気づかないうちに自分の可処分時間を誰かに取られているくらいなら、できる限り自分の思うままに時間を使えるようになりたいし、それに瞑想が役に立つならこの上ないと思う。
瞑想というのは自分の人生に真正面に向き合うということであって、しかも本質的にはその答えは誰もくれない。前の記事でも書いた通り、ただただ気づくこと、観察することが瞑想のすべてであって、思想や教えとは瞑想は分離されている。瞑想中はとにかく独りであって、まるで人生そのもののようだとも思う。
といっても、瞑想が「うまくいっているなら」ば、たとえ独りで瞑想していても自分はいろんな物事に支えられて生きていると実感できると思うのだけれど、そうした良い状況ばかりにはならない。
多分、瞑想なんかそもそも知らないで、普通に日常を過ごすほうが幸せであることもたくさんある。気づきというのはときに残酷。
なんでも程よく取り入れるのが良い
瞑想はたとえ思想や教えとは分離されているのだとしても、「気づきに満ちる」という一種の信条をもって瞑想を行うことは確かであって、そういう意味でもはや瞑想自体が一種の宗教であると自分は思う。
それでも、瞑想をうまいこと使って、ほどほどに日常に取り入れれば、ちょっとした肩こりにすぐ気づくこともできるし、きっと素晴らしい毎日になる。
だからこそ、瞑想は何か期待をもって行うべきものではないし、効能や特効薬みたいなものを期待して瞑想を行うと、大きな期待はずれどころか、逆に気づきに振り回される結果になる。
瞑想ではいろんなことに気づくことができるけれど、瞑想中はそれをどうこうしようとしないのが普通。あるがままにしておこうとするのだけれど、あるがままにしておくのが難しいというのも人間だと思う。
「あるがまま」という言葉自体、何をどこまでをあるがままとするのか、そうした答えは瞑想はくれない。自然に気づくことはあっても、それこそ「銀の弾丸」といえるほどの明確な答えはない。
もし銀の弾丸を求めて瞑想やマインドフルネスを行うなら、多分そこには答えはない。けれど、良い意味でも悪い意味でも、答えに近づくための多くの気づきをくれると思う。