悟りはきっとみんなが思っているようなものではない
記事タイトルは、マインドフルネス考案者であるジョン・カバットジン先生著作の『瞑想はあなたが考えているものではない』にちなんだもので、内容は関連はあるけれど直接的に関係ないのであしからず。
最近、マインドフルネスの延長線として、特に『Beyond Mindfulness ― マインドフルネスを越えて』や『8マインドフル・ステップス』などを含めた複数の書籍を読んでいて、その他特に悟りとは何かというものを書いた書籍や論文を読み、日々の自分自身の体験を交えた上で、感じたことを以下に書いていこうと思う。(多分に宗教的な内容に踏み込むことになるので、苦手な方は控えてもらえればと思う。)
なお、このブログの筆者の職業はエンジニアで、宗教学者でも心理学者でもないので、以下は気軽なエッセイ程度に捉えてもらいたい。
マインドフルネスを越えることの意味
まず、大前提として、マインドフルネスは宗教とは意図的に切り離して作られている。
キリスト教を含めたアメリカやその他の国々の人たちに広く使いやすい "ツール" として使えるように考えられたもので、一つの心理療法や心理学的手法、さらにいえばハサミとか鉛筆みたいなシンプルな道具として使えるように設計されたからに他ならない。
自分はこのことは本当に素晴らしいと思っている。例えばブログや言葉もそうだけれど、単なる道具になることでみんなが気軽に使うことができて、気に要らなければ捨てることもできるし、興味があればどんどん深めることだってできる。
一方で、単なる道具にしたということは、それなりに限界もあるということである。例えば鉛筆だけでは書いた絵を消すことができないのと同じように、他の道具と組み合わせたり、ルーツになった信条を参考にすることでさらに深みが増す。
前述の二つのグラナラナ長老の著書は、後者の例で、マインドフルネスの元になった禅の、さらに仏教の八正道のなかから、Beyond Mindfulnessでは正定を深掘りし、8マインドフルネス・ステップスでは八正道全体を深掘りしている。
個人的にBeyond Mindfulnessは「正しい集中」について平易な言葉で書かれた貴重な書物だと感じている。内容としてはかなり仏教的なのだけれど、意図としては仏教徒以外にわかりやすく内容を伝えようという狙いがよくわかり、続編の8マインドフルネス・ステップスと併せて、初心者である自分自身にとっても貴重な情報源となった。
ただし、ここで一つ注意しておきたい問題がある。それが、信条や宗教に踏み込むというのはどういうことか、ということ。
深い知恵を得るために、何かを求めるというのは、メリットの大きさに対してそれなりに大きなデメリットやコストが存在する。特に、信条や宗教といった、考え方や生き方のベースになっているようなものを置き換えたり、考え直すというのは、それなりに大変なことである。
次の項ではこのことについての注意喚起も含めて、この記事の核心である部分を書くつもりなのだけれど、最冒頭で紹介した『瞑想はあなたが考えているものではない』でも挙げられているように、もしメリットを求めてマインドフルネス自体やその先を深掘りするのであれば、多分それは大きな過ちに陥るし、きっと求めているものは得られない。
自分自身、マインドフルネスで得られた良い体験を基盤にして、さらに深く知るべく、日々瞑想を続けたり、座禅をしたり、関連書籍を読んだりしてきたけれど、得られたものはそれなりにあるものの、「良い体験」をさらに良くできたということはなかった。だからこそ、スタート地点を心地よさや楽しさに置くと、おそらく大きなドンデン返しを食らう。
悟りとは何か: 当たり前を当たり前だとわかること
では、この記事の核心である、悟りとは何かということに言及していきたいのだけれど、前置きとして、自分は決して日々八正道を熱心に努めた修行僧ではないので、以下は想像の範疇でしかない。しかしながら、悟りに言及している多くの書籍や論文が同様のことを書いているように、日々「小さな悟り」、いわゆる気づきを絶やさないことで、その有り様というのはなんとなく想像できるものであると感じる。
悟りとは単刀直入にいえば、ワンネス(真我)やノンデュアリティ(中道、非二元論)を体現することであると思う。
それらは何かというと、ワンネスというのは、他者や自分といった区別のない、全てが一つ(の自分)であるという認識。そして、ノンデュアリティというのは、前者のような自己認識も含めて、あらゆる観念において、言語や思考のような二元論的な区別すらなく、全てがニュートラルであるといった認識。
これらを知識として知ることは容易いのだけれど、自分自身がそれになるというのは、実際には非常に困難であるし、いや、実は何もしなくてももうそれであるともいえる。
言葉で表現するとこうなってしまうのが、なんとも歯がゆいといつも思う。言葉の語彙というのは二元的、カテゴリー的であって、非二元的で区別のない世界を形容するには自分の語彙が足りなさすぎる。
ただ、少なくともいえることは、これらはごく当たり前で普通のことだということ。
ここに挙げた『これ以外のなにかはない』にも書かれているのだけれど、もし悟りというのが今の自分ではない全く別の超常的存在になるようなものであると考えているのだとしたら、それは誤りだと言わざるをえない。
仏教でブッダが目指したこともそういうことではない。あくまで現実を正しく見るということであって、現実を歪曲させることではない。つまり、悟りで得られることも、至極当然で当たり前のことで、今ここにあるものと何も変わりはないということ。
ノンデュアリティ関係の書籍でもよくいわれている、非二元論を考えると虚無感を感じるという問題があるのだけれど、そうした問題はここを誤認していることにある。
言葉でうまく伝えられる自信はないのだけれど、どんな言葉で何を形容しようとしても、今ここにあるものの有り様は変わらない。たとえそこにどんな理屈をつけたとしても、物事が変わることはない。変わるのは見方だけなのであって、見方と事実が二つに分かれている時点で、二元的になってしまっているのである。八正道やノンデュアリティ、ワンネスといったものは、このことに気づかせようとしているに過ぎない。
ただ、虚無感を感じるというのはとてもよくわかる。日常で言葉を使って様々なコミュニケーションをしたり、思考をして生きているところに、急に言葉や思考では捉えられないようなものがあるといわれると、面食らうし、何をしてもしなくても変わらないとかいわれると、もっと訳がわからなくなる。
でも、そういうときは思い出してほしい。考え方や言葉が変わったとしても、事実は変わらないということ。今ここにあるものは何も変わらない。
一方で、全ての物事は常に変化している。科学の授業で原子と分子、クォーツなどを習ったらすぐにわかることだけれど、ミクロのレベルでは全てが動いていて、変化している。
言葉で捉えようとすると、変わらないのに常に変わっているとは如何に、みたいになってしまうけれど、当たり前のことだし、どんな理屈をつけても世界が変わるわけでも、地球の自転が止まるわけでもない。でもひょっとしたら、ベースになっている考え方が一変してしまえば、地動説と天動説の違いみたいに、まるで世界が豹変するような衝撃を受ける人もいるかもしれない。
後者について少しだけ言及しておきたい。自分自身も日頃からよく間違いを繰り返す。失敗しながら少しずつ前に進んでいる。感動するとか衝撃を受ける、というのは、そうした過ちに気づく瞬間であったり、真理のようなものに気付かされてハッとする瞬間であることが多いと思うのだけれど、ワンネスなどが物語るように、失敗や誤った見方というものは存在しない。見方というのは無限にある。
ただ、これもまた言葉で語るのが難しいのだけれど、真理というのは存在する。目の前の物事は間違いなく動き続けているし、一定のルールに基づいて動いている。だから、真理はあるのだけれど、真理というものはない。
これは、古典物理学が間違っていたり、量子力学と相対性理論では説明できないことが存在することに似ている。これらはどれも「正しい」のだけれど、「誤っている」のである。
こうやって読んでいて、さっぱり意味がわからないとか、前述の虚無感に陥るという感想があることはとても腑に落ちる。けれど、実際の現実がそうなっているのだから、仕方がないし、そういっている間にも物事は動いている。
悟りというのは、科学が真理を探求しようとすることと、同一であると自分は思う。そして同時に、科学的根拠がないものが役に立たないとはいえないし、いや逆に民間療法の方がときには役立つことがあるように、どちらも役に立つ。
例えば、古典物理学が間違っているとしても、古典物理学というのは日常の99%で大活躍するし、正しい。でも間違っている部分もある。
数学だって、矛盾はあるし、証明されていない問題もたくさんある。でも破綻しているわけではないし、とても役に立つ。
悟りだって、同じものだと思う。知らなくても生きていけるし、知ったところで当たり前のことを知るだけだし、常に変化している物事のなかで、自分自身も常に変化しているのだから、忘れていくし考え方だって変わっていく。悟ったとしても、努力しなくていいことにはならないし、学びがなくなるわけではない。
まとめ: 真理を追求するというのは、普段通りの生活をするということ
さて、この記事では、悟りというのがどんなもので、悟りを目指そうということにどんなリスクやリターンがあるかを、できる限りわかりやすく書こうと努めてみた。
しかしやっぱりというべきか、多くの禅にまつわる書籍がそうなっているように、まるで「煙に巻く」ような表現ばかりになってしまったし、内容は矛盾だらけで取り留めのないものになってしまった。
でも、それが現実というものなのだから仕方がない。自分はそのことを知ってもらえたら満足だと思う。
ブッダも、人間は糞袋にすぎないといったそうだけれど、悟りはそんなものであって、そんなに崇高な何かではない。
たとえ真理が「なんだこんなものか」というものであったとしても、真理に至ろうという活動は素晴らしいものである。だから、真理の探求をやめるべきではないし、何より、目の前の仕事や生活をおろそかにするべきものではない。それどころか、真理は目の前の生活や日常にあるのだし、目の前の生活や日常そのものなのである。
もしワンネス(真我)やノンデュアリティ(中道)を知り、学んで、虚無感に襲われている人がいたら、このことをどうか思い出してほしい。言語や思考というのは必要だからそこにあるのであって、言語に限らず、全ては必要だからそこにある。意志の力もしっかりと存在するし、何もしなくても物事は動いていく。
現実というのは、偏りや矛盾があるように見えるのだけれど、それでもただ、そこにあるのである。