しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

非二元論と二元論

以前記事を書いたあと、少し考えたことがあるので追記をしておきたい。

言葉というのは難しいものだと思うし、わかりやすく何かの用語を使うと、どうしても誤解を生んだり、自分自身も言葉自体の持つ意味に少しずつ誘導される部分がある。

かといって「あるし、ない」みたいな書き方をすると、伝わるものも伝わらないというのもわかる。これが「不立文字」といわれる所以でもあるし、かといって伝えることをやめるのも違うと思う。

この特に最たる例が、非二元論と二元論の折り合いをどうつければいいのかという話題。これらはどちらが良いというものでもなければ、理論としてなかなか折り合いがつくものでもない。

いくつか同様の話題を取り上げた記事や論文があるので一応参考に挙げておきたい。

ku-haku.jp

cir.nii.ac.jp

以前自分が書いた記事で非二元論を取り上げて、あたかも非二元論が正しいかのような書き方をしているので、誤解のないようにしておきたいのだけれど、前述の記事でも書かれているように、どちらも結局のところ似たような結論に落ち着くし、どちらでも良いことだと思う。

例えば数学でも、ゲーテルの不完全性定理といって、無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾性を証明することができないという性質がある。

ただ、単にどちらでも良いといっても今ひとつしっくりこないとすれば、ある意味で、非二元論と二元論は父と母みたいなものだと考えると、少ししっくりくるのではないかと思う。

もし私たちが何の知覚も分別もできないのであれば、それが一つだとか二つだとかいう分別はできない。非二元論が出てくるのは、文字通り二元論があったからであって、非二元論があるから二元論がある。この両者はある意味で相補的だというのが、自分の意見である。

正直いって、世界に対して盲目的でもいいのかもしれないと思うときが、ごくたまに自分の頭によぎることもあるのだけれど、没頭と集中の違い、溺愛と慈愛の違いにあるように、私たちは知覚も分別もできて、それでも手放すからこそ人間なのであると思う。

どんな理論でも完璧とはいかないし、完璧なものを見つけたと思うと苦しみにしかならないので手放すべきなのだけれど、どんな気休めであっても、一時的にでも役に立てば立派に人を助けていると自分は思うし、役に立って窮地を逃れることができたなら、ありがたくすんなりと手放すべきだと思う。