しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

考えなくても良い理由

前の記事の最後で、思考の必要性について議論してみたのだけれど、もう少しだけ掘り下げてみたいと思う。

よくマインドフルネス等では、「考えない」というのが良しとされている。

その理由について、言語や言葉で説明するというのはとても難しいのだけれど、なんとか試みてみる。

一度に処理できる量がぜんぜん違う

まず、考えないということは、感じることだと仮定する。

感じるというのは、身体の感覚器を最大限利用するということで、そのほか、筋肉や血管であったり、普段は意識していないけれど自分が利用できるものはすべて利用するということに他ならない。

このとき、思わぬ副作用があって、身体をできるだけすべて利用すると、身体の様々な部位の不調を感知したり、各部位の求めるベストな状態を自然と追い求めることになるので、だんだんと全身が整ってくるため、単に思考するときと比べてパフォーマンス(能率)も上がってくる。

例えばパソコンを例にとると、CPUとメモリだけで処理をするか、GPUFPGAやICや、他の処理ユニットもすべて計算に使うかという違いと似ている。

会社を例にとると、社長だけで考えるのか、社員全員を総動員するのかの違いと似ている。

ただ、パソコンの例では各ICやFPGAが普段はそれぞれの専門の処理をしていることと同じように、会社の例では社員はそれぞれの仕事を受け持っていることと同じように、必ずしもトップ(CPUや社長)の思い通りになるわけではない。

脳だけで行う論理的思考はある程度自分の思い通りになるのに対して、全身を使うというのはそうそう思い通りにはならない。

そういう意味では、考えないということは、会社経営やセンサー制御の難しさと似ているのかもしれない。各部所の声をうまく聴くことができればうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。

脳は勝手に考える

また、別の見方をすれば、瞑想をしているとよくわかるのだけれど、自分で意識しなくても脳は勝手に考える。

そもそも普段から筋肉や呼吸を制御するために脳はずーっと休まず動いているし、例えば急に大きい音が聞こえてビックリしたり、トイレに行ってトイレットペーパーがなかったりしたら、否応なしに次の行動を考えることになる。

日本には四季が存在するので、冬になって寒くなれば自然と寒さに備える支度をするし、秋にはその前の蓄えをする。春には自然と外に出たくなるし、夏にはスイカが食べたくなる。

なので、大抵のことは自分で意識をしなくても自動的に考えることになるし、かつ脳の余力が余っていれば、それだけ余裕が出るので、前節のような良い副作用も出てくるし、行動に余裕が出ると良い結果も付いてくる。

考えないほうが興味が湧く

何においても、休憩や休息というのはとても大切。

それは思考や興味についても同じで、毎日しっかり定期的に何かをするというのも大事だし、夏休みや冬休みを挟むというのも同じくらい大事。

例えばスランプに陥ったときに、思い切って何もしなかったほうがあるときふと興味が湧くように、寝かせるというのはとても有効。

自然に任せるというのは、こうした緩急を自然のままに行わせるということで、波が必然的に生まれ、谷があるからこそ山が出てくる。

瞑想というのは「ギアをニュートラルに入れること」なので、人によっては休息を促すことにも、逆に集中力を高めることにもなる。その時々の背景によって生まれる結果は異なる。

考えないということも同じことだと自分は思っていて、勇気を持ってギアをニュートラルにすることで、新しい発見や気づきが生まれる。

大抵のことはどうでもいい

また、とても重要な事実として、大抵のことは考えなくても良いという事実がある。

まず日本の人口は1億数千、地球の人口は60億人以上いるので、これだけ人数がいれば多少一人一人が休もうが大した違いはないし、前節でも挙げたように重要なことは人間というのは勝手に考えて勝手に行動するので、あまり悩む必要はない。

これだけ人数がいれば、各専門性や地域性は自然と発生するし、当然ながらそれに伴った紛争というのも自然と起こる。

前の記事でパラダイムシフト(変革)について考えたけれど、パラダイムシフトというのは本質的にはどちらでも良いことであるので、変化の前後で不利を被る人たちの間で必然的に争いは起こる。

それは良い変革であっても同じ。そもそも良い悪いとは誰かの主観で決めたもの。

とはいえ、大抵の紛争は自然に解決するし、自分に関わってくるような紛争であれば、感覚的に自然と危機感を覚えて、自然に対応しようと思えてくる。

もっと身近な例に話を移してみると、例えば体調を崩している友人がいたとして、助けてあげたいという気持ちが湧き上がる。でもよく考えてみると、本人の体調管理は本人の問題であるし、他人の悩みを肩代わりするということは、依存性を高めるということにもなる。

このときどう判断するべきかは、その人との関係性や自分への影響によって変わるけれど、結局は自然と決まるし、緊急度が高ければ考える前から反射的に身体は動く。

ということはやっぱり考える必要はない。

制御できない不安

ここまで書いてきて、考えないことのメリットや、考えなくて良い必然性を挙げてきたけれど、それでも人間というのは自然と考えてしまう。

なぜかというと、前節でも挙げたように、自然に任せるというのは不確定要素が多く、不安が大きいからに他ならない。

もうこればかりはしょうがない。悩みや不安は尽きないし、不安はどうしたって消えたりはしない。

じゃあどうするかって、本当に大切なことだけを真剣に考えれば良いと、自分は思う。

そして、そうした大切なことは、何も意識しなくても自然と考えさせられることになる。

少なくとも言えることは、考えることが多くなればなるほど、喜びも増える一方で悲しみも悩みも増える。

例えば、ごはんが美味しいと思えるのは、お腹が空いているからであって、プラスとマイナスは必ず対になっていて、幸福と不幸は必ず対になっている。

ということは、欲が多くてもプラマイゼロだし、欲が少なくてもプラマイゼロ。どちらでも良い。

限りあるリソース

欲が多ければたくさんの紛争やトラブルに巻き込まれる代わりに、たくさんの喜びも幸せも舞い込む。

欲が少なければ、喜びも幸せも少ないけれど、悩みも悲しみも少ない。

ただし、この2つの対比は一個人にとってであって、世界が持っている資源(リソース)というのは有限であるので、世界全体としてみるとみんなが欲が少ないほうが嬉しいということになる。

時間自体も資源だし、あらゆるものは資源なので、限りあるものをできるだけ減らさないように使っていくしかない。

ただこれも、前の記事で挙げたように、強欲にいればそのうち資源が尽きて自然と失敗を体験するし、結局のところはどちらでも良いと自分は思う。

たくさん試行して失敗を重ねるのを良しとするのか、できるだけ失敗がないようによく設計するのか、好みの問題。

それに、宇宙はどんどん膨張しているのだし、リソースは有限という考え方自体、そのうち古くなってくるかもしれないし、その前に地球が滅びるかもしれない。そんなの誰にもわからないので、どちらでも良い。

どちらでも良いならどうするか

たいていのことはどちらでも良い、考えなくても良く、結果は必然的についてくるのだとすれば、ではどうするか。

自然に身を任せるのか、あらがうのか、何もしないのか、そこに各人の個性が現れる。

そうだとすると、自分にとって大切なことに自分の限りある時間を使うというのが、自分は一番良いのではないかと思う。

みんなのために時間を使うなら、みんなから感謝を集めるし、自分一人のために時間を使えば、余計な雑念に関わらなくて済む。結局すべては好みの問題で、それすらも自然と決まっていく。

……と、こうやって文字にして書いていると、やっぱり二元論的になってしまうのが言葉の難しいところ。現実は何かと何かの対比ではないし、至って多面的。それでも人間というのは、思考すると自然と二元論的になってしまう。

そう考えると、やっぱり考えないのが一番だと思う。