しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

雑記: 改造ポメラと書く瞑想

ここ最近、このブログでも一度紹介した改造ポメラでいつも寝る前に雑記をして寝るのだけれど、たまにはブログで公開しても良いかと思ってそのまま雑記を書き出してみることにする。

電子文具としてのポメラ

そもそも改造ポメラとはいえ、新下駄配列+Programmer's Dvorakで文字打ちができるように改造したに過ぎず、使い方は至って普通のポメラと同様に使っているのだけれど、文字書きを終えたあとにそのまま文書をgitにcommit + pushして管理できたり、あまり使いはしないけれどpythonとかも好きに書けるのは便利ではある。(新下駄Dvorakの入力システム自体もRubyで直接ポメラ上のDebianで開発できた。)

普段のシステム開発や文章書きはMacBookWindowsノート・デスクトップで行っているので、ポメラは本当に思考整理にだけ使っていて、極力オフライン動作することでポメラ本来の使い方に近いようにしている。そうすることで文房具という感じが出てとても落ち着くし、自分は昔のワープロが好きだったのでなんだか親近感が俄然湧く。

ポメラについては数年前から複数のモデルを愛用していて、今のように改造までして本格的に使うに至ったのは本当にここ一年くらいなのだけれど、それまではごく普通に手軽な電子文具として日記を書いたりしていた。日記も日記で手書きで書いていたりもしていたのだけれど、なんだかタイピングしたほうが落ち着くことも多かったので、無駄にカフェに行ってはポメラを広げてただただ日記や雑記を書くこともあった。

引っ越しと書く瞑想とマナ

なぜ自分が最近ポメラで思考整理することが多いのかと考えると、やはり引っ越しと新生活が大きく、振り返ると以前の就職の際も同様にポメラの記事数は多く、それ以前もノートの記載は転機が多かった。自分は思考整理を文字書きで行うことが多いようで、ブログのタイトルにもしている「書く瞑想」というのを、意識する前から多く行っていたようである。

書く瞑想に限らず、瞑想というのは心の平穏と集中を保ってくれるのに大いに役に立っていて、最近はツールというよりも生活の一部、生活そのもの、人生そのものになりつつあるように思う。

瞑想というのは、座る瞑想、歩く瞑想、食べる瞑想、呼吸瞑想などありとあらゆるものが瞑想となり得るもので、座禅だけが瞑想というわけではなく、例えば掃除や洗濯のような作務も立派な瞑想の一つだと自分は思うし、タイピングも写経と同様に瞑想行為の一つであると考える。

じゃあなにが瞑想で瞑想でないのかというと、「気づき」が多いと瞑想で、そうでなくただ雑念に追い込まれて嫌な気分になるようであれば瞑想ではないのかなとも感じるし、いやいやそうでなくて、もはや嫌な気分になっている自分を客観的に観察するとか、雑念を俯瞰するということも瞑想に含めるのであれば、もう実は瞑想でないものというのはなく、瞑想というのはただの概念や哲学ではないかと思えてくる。

ただ個人的には宗教とは少し切り離して考えるべきな気はしていて、マインドフルネスというのが宗教と意図的に切り離されているように、そのルーツの一つである瞑想も、一つの考え方やツールという以上の意味を持たせないほうが自分は良いように思っている。というのも、気づきから得られる洞察は各個人で違って然るべきであって、そこに至る過程や体験を瞑想は提供しているに過ぎないと自分は思っていて、このシンプルさや純粋性はそのままにしておいたほうが、UNIX哲学がそうであるように美しいと思う。

( 引っ越しの話とは脱線しつつあるものの、UNIX哲学と瞑想を並べて考えたのは個人的には初めてなのだけれど、こういう類似の思考パターンを一種の圏論的な類似性でみるというのは他でも多くみられていて、最近読んだ記事ではHTTPキャッシュの考えをドキュメントの新鮮さ管理に使っている例が個人的に面白かった。)

さて本来書きたかった引っ越しの話に戻ると、自分はあまり引っ越しというのは得意でなく、旅行とかも得意でないほうなのだけれど、多く旅をすると賢くなるというのはなんとなく理解できたように感じた。

今まで慣れ親しんだ土地を離れて違うところにいくと、普段いかに自分自身が周りとの絶妙なバランスのなかで生きていたのかがわかる。よくいくお店や公園であったり、馴染みの店員さんや病院の先生、薬剤師さんであったり、美容師さんであったり、普段は特に意識することのない関係性のいろいろが、こういう転機のときはまるで走馬灯のように懐かしく振り返られたりする。

こうした周りの小さな多くの力によって自分自身というのは支えられていたのだなと思うと、これこそ本当にマナであると個人的には思う。自分がいかに多くのマナによって助けれられていて、逆に自分自身のマナもいつの間にか他人に力を与えていることだってあると思う。そうした、ほんの少しの小さい力の積み重ねが、気づくと総体として大きな集まりになっているのだなと、引っ越してふと街を眺めていると感じる。

こうしたマナは自然も人間も同等に持っていると思うし、一見不必要に感じるような騒音であったり隙間風のようなものも、マナの表出の一つであると自分は思っている。全ては表裏一体、トレードオフであって、あるエネルギーを負と捉えるか正と捉えるか(あるいは悪とするか善とするかでも良いし、良し悪しでも良い)は、先程の気づきに対する洞察と同様、受け取る側の自由であると感じる。

自分自身も、地球や街から見れば小さな一個体であるけれど、よく観察すると多くの小さな生命から構成された複雑な有機物であって、一であり全である。この事実が何事においてもとても大切だと思っていて、例えばある風の音一つをとっても、複数の要素の複合体として多くの情報を持っていて、それをどう捉えるかは無限の可能性がある。

般若心経にもあるような色即是空、空即是色も同様であると思うのだけれど、つまりは一つの現象に見えるものも実は無限に細部や要素があって、かつ毎時常に変化し続けているという事実は、実は非常に衝撃的であると自分は思う。海岸線を辿るというのは実は無限に細部があって難しいのと同様に、実はこの世界の見え方も本当に一人一人無限に違っていて、自分がこうして書いている記事や言葉が他人に伝わるというのが本当に奇跡であるということを感じる。

だいぶ話が広がってきたけれど、引っ越しや移動というのは大きなエネルギーが必要とされるし、自分にとって大きなストレスでもあるのだけれど、こうして多くの気づきがあったり、こうした表現のチャンス、思考整理の新たなチャンスを与えてくれるという意味で、本当に有り難いことだと思う。