執着しないことに執着しないこと
余談: このブログの今後
タイトルとはやや無関係なのだけれど、ここ半年くらいSNSを全くやらなくなったので整理していて、いわゆるメッセージのみの運用に切り替え中。コンテンツ自体は削除せずにただアーカイブ。
その流れで、このブログ自体もアーカイブするかとても迷っていて、今も迷っているのだけれど、今はとりあえず残しておくことにしたい。
個人的にはエフェメラル(=はかない、一時的)なSNSが自分にはちょうどいいバランスだなと昔から思っていて、風化せずに残るものはあまり得意ではないのだけれど、こうした人為的なことなどでいつかは消えていくし、情報自体も風化していくので自然な成り行きのままにできればと思う。
本題: 執着しないことに執着しないことに執着しないことに…
最近よく考えることに、一周回って戻ってくるとか、これってこういう意味だったんだ、と再確認することはすごく大事だなと思ったりする。
あくまで自分の解釈なのだけれど、"執着しない" ということは、それにすら執着しないっていうことなのかもしれないと思って、こう考えているとメタメタ理論やメタメタ言語を思い出す。
メタ理論というのはある実際の構造に対して、さらに上位次元の理論を考えることなのだけれど、そのメタ理論にも構造というものはあるのであって、その上にはさらにメタメタ理論があって… (以下略
昔HaskellとかLispとかが全く理解できなかったときに圏論を熱心に勉強していた頃を思い出す。今も理解できているとは到底思えないのだけれど、今も昔も考えることは変わらないなぁと素朴に思う。
ちなみに「執着しないことに執着しない」に関連したものとして、仏教のイカダの例えといわれるものがある。(ここに書き下してもただの引用になるので、詳しい内容は他のブログ等を参照いただきたい。)
イカダの例えというのは、川を渡ったときに使ったイカダを、その後に川がないとわかっていても果たして担いでいくかというもの。いかにありがたく貴重なものでも最後は手放しなさいという、ありがたーい例え。
で、こうした話を聴いていると、手放すことすら手放すのが大事なのかなと思ったり。
例えばこの記事自体、なんか役に立ちそうなことを書いておきながら大して役にも立たないので、逆もしかり、大事なものというのはありそうでないし、ないと思えばあるし、きっとそういうものなのだろうと思う。