一切皆苦?
また仏教の話題になるけれど、先日いくつか興味深い記事を読んだので紹介しておきたい。
前提として、自分はどんな考え方も素晴らしいと思っていて、どんな解釈が人それぞれあっても良いと思う。
また、数学にも矛盾があるのだから、矛盾があること自体は悪いことではない。
なので、あくまでこれらは気づきを深めるためのものなのだけれど、現代仏教と古代仏教の違いが見られるという点と、現在主流な解釈ではいくつか矛盾が生じているというのは興味深い。
さて、ここまで前置きして、自分は以前から一切皆苦という表現には違和感があった。喜怒哀楽と変化する感情や感覚のなかで、なぜ苦だけが特筆して取り扱われているのか、また、中道というのは快楽の道でも苦行の道でもない道を解いているのに、一切皆苦では辻褄が合わないのではないか、と。
それらに関する一つの見方が、引用した記事にある解釈である。例えば、"一切全てが" という表現自体が本来の意味から転じたもので、もとは「一切のサンカーラ (行) が」であって、この箇所の苦の意味もニュアンスが異なっていたというもの。*1
よく、法律は解釈や判例があって、解釈や判例も変わっていくというのが、こうしたところでも似た現象があり、かつ言葉自体が生き物として変化しているというのがよくわかる。
自分はそれ自体興味深いことだと思うし、どちらでも良いと思う方なのだけれど、もしこれが例えば仮に自分が絶対信じる教義であった場合はどうだっただろうと思ったりする。でも、仏教では絶対という言葉も考え方も登場しないし、例えば "正しい" ひとつとっても現代一般の "正しい" とは指す内容が違っていたりする *2 ので、実は同じものを見ているようで同じではないかもしれない。
言葉というのは本当に難しいものだと思うし、そうすると「不立文字」と言いたくなるのもわかるし、でも不立文字自体が文字であって、言葉でしか伝わらないことだってある。だからこそ言葉というのは奥深くて難しい。