USBでUbuntu (persistent)を持ち歩くときのメモ

自宅ではUbuntuマシンを作っているのだけれど、久々にUSBで持ち歩けるUbuntu (Liveかつ永続ストレージあり (persistent) )を作成しようとして地味に苦戦したので、最も参考になった記事をメモ。

qiita.com

ポイントはmkusbを使うところ。Live環境で以下を実行し、mkusbからブータブルなPersistent Live USBを作る。

sudo add-apt-repository ppa:mkusb/ppa
sudo apt update
sudo apt install --install-recommends mkusb mkusb-nox usb-pack-efi

mkusbでは、grubmsdosではなくusb-pack-efiを選択するのもポイント。

ちなみにUSB起動だといろいろ時間がかかるので、外付けSSDが使えるとベスト。

森林浴のできる都心暮らしと、内面の変化

今日は引っ越した場所に近い "都会の里山" で森林浴をして、とても癒やされた。

とても良い森林で、このブログの趣旨にも合っているように思ったので、多少恥ずかしいが自撮りしてブログのヘッダ画像にしてみた。

引っ越しの目的は職場に近い場所への移動ではありつつ、かつ里山に近いという、まるでドラえもんの裏山のような立地に住んでいるので、個人的にとてもバランスの良い場所だなと思う。田舎暮らしも夢見たのだけれど、自分も妻も難病ということもあり、都会から離れるのはリスクが大きく、幸福度と収入のバランスを考えていまの暮らしに落ち着きつつある。

現在の場所に引っ越したきっかけは、ふと妻と休日に出かけてバスで横を通ったときに、正直直感的にここなら10年ぶりに引っ越したいと思ったからであって、ある意味この引っ越しありきで全てを決めた感がある。

転職自体もたまたまで、フリーランスのままでいるという選択肢もあったのだけれど、仕事内容的に今の会社のこと以外はしなさそうだったし、それなら引っ越しに有利な正社員雇用を得られるなら是非にと、よろこんで就職して早速引っ越した。自分かなり優柔不断なところがあるので、こういうものに背中を押してもらえると決定が早くて心強い。

では引っ越してよかったかどうかというと、前記事にも書いた通り、最初は慣れない通り沿いというのと、景観最重視の壁無しバルコニーによる直接騒音に慣れず、一ヶ月中の数日しか熟睡できない始末だった。でもそれも今では耳栓なしで熟睡できるようになったので、一ヶ月という時間はかかったものの、人間の適応力は本当にすごいと思う。

一番期待していたバルコニーも、最初は騒音のせいで楽しめず、AirPodsノイズキャンセリングをフルにしてようやくリラックスできていたが、今や普通にバルコニーの騒音のなかでもリラックスして本を読んだりブログ書いたりできるのだからすごい。いまや騒音があるくらいの方が余計な雑念がなく落ち着くとすら思う。

引っ越してすぐの一ヶ月間は、騒音に慣れられる気がしなくて、正直毎日のように元いた場所に戻ることを考えていたのだけれど、引っ越しうつのブログを読んだり、騒音の向こう側にあるものを意識すると良いという記事を読み、騒音を "敵" だと考えず、自分を "被害者" だと考えないようにしたりした。そしてできるだけ引きこもらずに積極的に知らないお店に行ったり散歩コースを開拓しているうちに、自然と気持ちも明るくなって慣れることができた。

こう考えると、騒音や環境の変化といった外的要因の変化は、正直相手方を変えることは難しい。人間関係もそうで、相手側を変えようとすることは無理なことだ。こういったものから受けるストレスを、マインドフルネスや意識改革によって変化させ、マイナスどころかプラスに変えることができるというのは、本当にすごいことだと思う。

もちろんこうした適応というのは、内部的な心理面の変化もありつつ、例えば冒頭に紹介した "都会の里山" であっても、地域ボランティアの方々が大切に維持管理していることに気づいたり、他にも家の近くに個人経営の商店を見つけたりとか、街のあらゆるエネルギーによるものであって、本当に万物に感謝すべきだと思う。内面を変えてマナの受信力を上げるのも重要だけれど、街自体、場所自体にマナがあるということも大切かつ根源的なことなので、やはり地域全体に活力があるというのが、素敵な街に繋がっているのだと思う。

雑記: 改造ポメラと書く瞑想

ここ最近、このブログでも一度紹介した改造ポメラでいつも寝る前に雑記をして寝るのだけれど、たまにはブログで公開しても良いかと思ってそのまま雑記を書き出してみることにする。

電子文具としてのポメラ

そもそも改造ポメラとはいえ、新下駄配列+Programmer's Dvorakで文字打ちができるように改造したに過ぎず、使い方は至って普通のポメラと同様に使っているのだけれど、文字書きを終えたあとにそのまま文書をgitにcommit + pushして管理できたり、あまり使いはしないけれどpythonとかも好きに書けるのは便利ではある。(新下駄Dvorakの入力システム自体もRubyで直接ポメラ上のDebianで開発できた。)

普段のシステム開発や文章書きはMacBookWindowsノート・デスクトップで行っているので、ポメラは本当に思考整理にだけ使っていて、極力オフライン動作することでポメラ本来の使い方に近いようにしている。そうすることで文房具という感じが出てとても落ち着くし、自分は昔のワープロが好きだったのでなんだか親近感が俄然湧く。

ポメラについては数年前から複数のモデルを愛用していて、今のように改造までして本格的に使うに至ったのは本当にここ一年くらいなのだけれど、それまではごく普通に手軽な電子文具として日記を書いたりしていた。日記も日記で手書きで書いていたりもしていたのだけれど、なんだかタイピングしたほうが落ち着くことも多かったので、無駄にカフェに行ってはポメラを広げてただただ日記や雑記を書くこともあった。

引っ越しと書く瞑想とマナ

なぜ自分が最近ポメラで思考整理することが多いのかと考えると、やはり引っ越しと新生活が大きく、振り返ると以前の就職の際も同様にポメラの記事数は多く、それ以前もノートの記載は転機が多かった。自分は思考整理を文字書きで行うことが多いようで、ブログのタイトルにもしている「書く瞑想」というのを、意識する前から多く行っていたようである。

書く瞑想に限らず、瞑想というのは心の平穏と集中を保ってくれるのに大いに役に立っていて、最近はツールというよりも生活の一部、生活そのもの、人生そのものになりつつあるように思う。

瞑想というのは、座る瞑想、歩く瞑想、食べる瞑想、呼吸瞑想などありとあらゆるものが瞑想となり得るもので、座禅だけが瞑想というわけではなく、例えば掃除や洗濯のような作務も立派な瞑想の一つだと自分は思うし、タイピングも写経と同様に瞑想行為の一つであると考える。

じゃあなにが瞑想で瞑想でないのかというと、「気づき」が多いと瞑想で、そうでなくただ雑念に追い込まれて嫌な気分になるようであれば瞑想ではないのかなとも感じるし、いやいやそうでなくて、もはや嫌な気分になっている自分を客観的に観察するとか、雑念を俯瞰するということも瞑想に含めるのであれば、もう実は瞑想でないものというのはなく、瞑想というのはただの概念や哲学ではないかと思えてくる。

ただ個人的には宗教とは少し切り離して考えるべきな気はしていて、マインドフルネスというのが宗教と意図的に切り離されているように、そのルーツの一つである瞑想も、一つの考え方やツールという以上の意味を持たせないほうが自分は良いように思っている。というのも、気づきから得られる洞察は各個人で違って然るべきであって、そこに至る過程や体験を瞑想は提供しているに過ぎないと自分は思っていて、このシンプルさや純粋性はそのままにしておいたほうが、UNIX哲学がそうであるように美しいと思う。

( 引っ越しの話とは脱線しつつあるものの、UNIX哲学と瞑想を並べて考えたのは個人的には初めてなのだけれど、こういう類似の思考パターンを一種の圏論的な類似性でみるというのは他でも多くみられていて、最近読んだ記事ではHTTPキャッシュの考えをドキュメントの新鮮さ管理に使っている例が個人的に面白かった。)

さて本来書きたかった引っ越しの話に戻ると、自分はあまり引っ越しというのは得意でなく、旅行とかも得意でないほうなのだけれど、多く旅をすると賢くなるというのはなんとなく理解できたように感じた。

今まで慣れ親しんだ土地を離れて違うところにいくと、普段いかに自分自身が周りとの絶妙なバランスのなかで生きていたのかがわかる。よくいくお店や公園であったり、馴染みの店員さんや病院の先生、薬剤師さんであったり、美容師さんであったり、普段は特に意識することのない関係性のいろいろが、こういう転機のときはまるで走馬灯のように懐かしく振り返られたりする。

こうした周りの小さな多くの力によって自分自身というのは支えられていたのだなと思うと、これこそ本当にマナであると個人的には思う。自分がいかに多くのマナによって助けれられていて、逆に自分自身のマナもいつの間にか他人に力を与えていることだってあると思う。そうした、ほんの少しの小さい力の積み重ねが、気づくと総体として大きな集まりになっているのだなと、引っ越してふと街を眺めていると感じる。

こうしたマナは自然も人間も同等に持っていると思うし、一見不必要に感じるような騒音であったり隙間風のようなものも、マナの表出の一つであると自分は思っている。全ては表裏一体、トレードオフであって、あるエネルギーを負と捉えるか正と捉えるか(あるいは悪とするか善とするかでも良いし、良し悪しでも良い)は、先程の気づきに対する洞察と同様、受け取る側の自由であると感じる。

自分自身も、地球や街から見れば小さな一個体であるけれど、よく観察すると多くの小さな生命から構成された複雑な有機物であって、一であり全である。この事実が何事においてもとても大切だと思っていて、例えばある風の音一つをとっても、複数の要素の複合体として多くの情報を持っていて、それをどう捉えるかは無限の可能性がある。

般若心経にもあるような色即是空、空即是色も同様であると思うのだけれど、つまりは一つの現象に見えるものも実は無限に細部や要素があって、かつ毎時常に変化し続けているという事実は、実は非常に衝撃的であると自分は思う。海岸線を辿るというのは実は無限に細部があって難しいのと同様に、実はこの世界の見え方も本当に一人一人無限に違っていて、自分がこうして書いている記事や言葉が他人に伝わるというのが本当に奇跡であるということを感じる。

だいぶ話が広がってきたけれど、引っ越しや移動というのは大きなエネルギーが必要とされるし、自分にとって大きなストレスでもあるのだけれど、こうして多くの気づきがあったり、こうした表現のチャンス、思考整理の新たなチャンスを与えてくれるという意味で、本当に有り難いことだと思う。

ACTH分泌不全症 闘病記 (4): 外出恐怖との戦い

久しぶりの闘病記。(毎回注釈を書くのだけれど、以下あくまで個人的な症状の記録で、個人差が大きいので注意。特に対処法は医師とご相談を。)

久々の心機一転、引っ越し。

4月から新しい場所に引っ越したのだけれど、引っ越し自体10年振りで、いま記事を書いているパソコンもようやく荷ほどきしたばかりで、ネットに繋ぎたくてもアダプタ等々が見つからず、結局VSCodeでローカルに書いている有様。

そもそも引っ越ししようと決意したのは、転職が大きいきっかけではあったのだけれど、近年のリモート主体の働き方もあって実は一応前のところに住み続けることもできた。けれど今回は職場近くでありながら自然に囲まれている、久々に引っ越してみたい場所を見つけることができたので、10年ぶりに思い切って引っ越すことにした。

大きな引っ越しというのは正直学生時代以来のことで、それまでは闘病のために田舎に帰ったり(また都市部に働きに戻ってきたり)といったことはあったものの、新しい場所に引っ越すというのは本当に久しぶりのことで正直戸惑いを隠せない。

とはいえ比較的近距離の引っ越しであることもあり、タイトルと反して最初の2週間くらいは新しい場所にとても親近感が湧いて、たくさんの発見や驚きがあってとても楽しく過ごした。

持病の下垂体前葉機能低下症(によるACTH欠損からくる副腎不全)もあり、買い物や外出はあまり得意ではないのだけど、引っ越しに伴う買い出しや移動は家族や業者さんの支えもあって特に不便なく行えた。

外出時の発作の不安

ただ、ゴールデンウィーク間際になってやはり無理がたたって、かなりだるい日が増えたため、休み中はコートリル錠を増量してゆっくり回復に努めたのだけれど、一度仕事のため自転車で出勤しようとしたときに強い不安症状と瞬間的な思考力低下と脱力感(あとで考えると軽い低血糖症状?)があったため、その時は事なきを得たものの、数日強い外出不安に襲われた。

毎年冬場にまれに似たような症状が起こって、その度に数日、回復のためもあって引きこもったり、少しずつ様子を見ながら外出したり買い物したりして回復期を乗り越えていく。だけれど、こればかりは何回経験しても怖いもので、どんなに数日前まで元気で過ごしていようが関係なく、一種のフラッシュバック的な恐怖感に苛まれる。

どんなときに起こりやすいかは決まっていて、やはりだるさが直前数日間続いていて、日によっては既にコートリル錠を増やしていて、それでもだるくて渋々外出をするとこうなる。いざ書き出すと低血糖発作の一種のようにも思うのだけれど、いざ症状が出るとパニクるのと、回復期でだるいのもあって難を逃れるとなかなか病院に行こうという気が起きず、よほどヤバいときを除いてはたいてい後日談として主治医の先生には後から話すことになってしまうので、結局理由はわからずじまいになることが多い。

さらに厄介なことには、実際の症状がないときでも、似た環境とだるさなどの身体要因が重なると、フラッシュバックから似たような発作が起こることがあり、一種のパニック障害のようになってしまっているのが本当にたちが悪い。

恐怖感を克服すべきなのかどうか

上に書いたような症状は、一年を通して考えると非常に少なくて、基本的にだるい日は無理をしないで休むようにしているし、服薬量も制御するので難を逃れることが多い。けれど、やはりどうしても避けることができない予定や買い物があったりするし、仕事で忙しいと服薬コントロールが散漫になることがあるので、こうした一種の発作的なことがやはり稀に起こる。

もう服薬を開始して何年も経って、徐々にノウハウは溜まってきているものの、どうしてもこの恐怖感だけは克服することができない。そもそも、自分の場合は正直大半が恐怖心からくる不安症状だと思っているのだけれど、上に書いたように稀に本当に低血糖症状のような発作が起こるため、完全に恐怖心を消すというわけには行かない。

このブログの闘病記も、正直難病という治らない病気に対して毎日服薬制御だけで日々を普通に過ごしている人間が書き残すのも最初はおこがましい気もしていたのだけれど、唯一闘病らしい部分といえば、やはりこの恐怖心との戦いだと思う。

3ヶ月に1回きちんと大学病院で定期検査を受けているとはいえ、3ヶ月というのは思いのほか長いし、間に何かあったときは短くするのだけれど、何かあったときに連絡を入れるエネルギー(病院の受付で何回も説明したり)や、通院の負担を考えると自然と通院回数を減らしたいというバイアスが働いてしまって、案外のその間は悩みながら対処して医師には後日談になってしまうことが多々ある。

特にこうした心理的な不安はなかなか相談しづらく、実は一度主治医ではない普通の心療内科に相談したこともあったのだけれど、特殊な病気ということで実質診療を断られてしまった。これもあって次回こそは主治医のところの心療内科にと思うのだけれど、そもそも日によっては複数の科に行くこともあるし、通院時間、待ち時間を考えてしまい、また後日談として話すときは喉元過ぎれば熱さを忘れるというのもあり、言い出せずじまいになってしまう。

もちろん、服薬とかを抜きにした単なるカウンセリングとか、そういうものを別途受けるという手はあると思う。だけれど、結局自分自身は毎回この外出恐怖を克服できずに、例えば遠方に行ったりすることは極力控えたり、仕事の出張は極力断ったりしてしまう。

恐怖感って、必要だからこそ身体が発しているのだと思っていて、過剰な不安や恐怖による萎縮もよくないとは思うのだけれど、完全に無鉄砲に行動するのも他人に迷惑をかけてしまうことになるので、難しい塩梅だなと常日頃思う。

調子の良いときは普通に生活できて、一時的にであれば多少無理することも可能だし、一年の大半は自分自身も病気のことを忘れて生活することができるのだけれど、こうやってたまに否応なく持病を自覚することがあり、極端なときにはまるで薬に人生を制御されているような錯覚に陥ることもあるのが、この病気のなかなか難しいところだなと思う。

結局のところ、毎日いかに自分の身体の状態をチェックして、いざというときに対処できる備えをして安心感を持ちつつ過ごすのが良いと思うのだけれど、この部分は自分自身、未だ答えを見つけることができていない部分でもある。

過度な運動をしないで健康を保つ難しさもあるし、できないことが多くても幸福感を保つ難しさもある。自分はそれに対してマインドフルネスなどをうまく活用して少しずつ乗り越えてきているつもりではあるけれど、失敗するたびに自信がなくなるので、多分今後もこうして一進一退しながら何事も上手になっていくのかもしれないと思う。

博多駅筑紫口側の路上お弁当屋さんマップ (2022/4)

路上販売の情報って案外ないので、マイマップ上にプロットしてみることにした。

博多駅筑紫口側には結構路上販売のお弁当屋さんが平日の12時前にはたくさん出店されていて、安くて美味しく、なかには超本格的なキッチンカーで高級弁当なんかも売ってたりして、個人的にとても重宝していた。

写真は撮りそこねていて、キッチンカーの写真しかないのだけれど、こんな感じ。キッチンカー以外の路上弁当屋さんは、もっと庶民的?な感じ。

今は引っ越してしまって利用していないのだけれど、こういう情報がネット上にたくさんあがるようになると、勤め先とか引っ越し先の楽しみが増える気がする。

wktk入力をGPT-2 & 青空文庫で仮検証してみる

前回、kwsk入力という名前で、打鍵数が半分で済むかもしれない新しい入力方式ができるのではないかという記事を書いた。

funatsufumiya.hatenablog.com

それからしばらくが経ち、呼び名をkwsk入力じゃなくてwktk入力」とすることにしたのだけれど (その方が楽しそうな名前なので)、なかなか実装する時間が取れないので、せめてGPT-2という機械学習モデルを使って、以前の記事中にあるwktk記法から普通の文章に変換する組み合わせをひたすら学習させて、その実力を検証してみることにした。

学習にはとりあえず手元にあった青空文庫のデータを使い、以下のようなデータを30MB分くらい使って学習素材とした。

===
srykohhansgtwttdmd
それよかお母あの仕事を手伝うもんだ
===
n
な
===
sstrkdaskshtrtkkry
そしたらこんだ浅草へ連れてくからよ
===
sgkmdstnej
小学校も出てねえじゃ
===
imdk
今時
===
kznmdrrnekry
小僧にも出られねえからよ
===
tttoygktwhsmndat
と父親が口を挾むのであった
===
tmzhhtsthhoywmt
富次はほっとして母親を視た
===

青空文庫なのでちょっと文体が古風なのだけが玉にキズだけど、仮検証には十分。

ちなみに実際のコードは以下で、gistとして公開済み(中身はGoogle Colab用)。ただし、前処理の aozora_all_texts.txt には青空文庫の文章(文章であれば違うものでも大丈夫)が事前に入っているものとして書かれていて、/content/drive/Shareddrives/colab/wktk_aozora_220220 は個々人の環境に応じて別のフォルダに書き換える前提。

で、1時間くらい学習させたところで試しに実行させてみた。

まずは ohygzms (おはようございます、のつもり)。毎回10パターン生成させてみることにした。

=== ohygzms  お早うございます
=== ohygzms  おはようございます
=== ohygzms  お早うございます
=== ohygzms  遅くございます
=== ohygzms  お早うございますの
=== ohygzms  お早うございます
=== ohygzms  お早く御座います
=== ohygzms  お早うございます
=== ohygzms  お早うございまする
=== ohygzms  お早うございます

おお、この時点でもうめちゃくちゃ感動。正直全く文章にならないと思っていたので、GPT-2 (rinna/japanese-gpt2-medium) の実力に驚きを隠せない。

(GPT-2でこのレベルだと、GPT-3に生成させたくなってくるけど、自分GPT-3は検証環境持ってないや…。)

次は、sieb (そういえば、のつもり)。

=== sieb  そういえば今晩は』
=== sieb  そういえば ===
=== sieb  そういえば今年は
=== sieb  そういえばいゝね
=== sieb  そういえばこの界隈では
=== sieb  そういえばん』 『よしいえばん』
=== sieb  そういえば 去年あたり
=== sieb  そういえば今晩は
=== sieb  そういえばさっきまで
=== sieb  そういえば) ===

おお、ちゃんとできてるのもあるし、その先まで生成しちゃってるのがGPT-2らしくて可愛い。続きの文章はいかにも青空文庫という感じ。

もう少し長い文章も生成させたいので、次は kynghnhnnksr (今日のご飯は何かしら、のつもり)。

=== kynghnhnnksr  今夜の御飯は何にかしら
=== kynghnhnnksr  急に五百の兵の中に去り
=== kynghnhnnksr  きょうの御辺の不運に苦し
=== kynghnhnnksr  きょうのごはいはいにぬけされ
=== kynghnhnnksr  巨きな画風にはなにかしら
=== kynghnhnnksr  今日の御船は七輛の計らしい
=== kynghnhnnksr  今日の御船は何かしら
=== kynghnhnnksr  きょうの群盗はなにか知らん
=== kynghnhnnksr  こや人間は人にのこされ
=== kynghnhnnksr  きょうの御本人はなにか知らん

奇跡的に最初の一つはほぼ正解してるけど、kyが「今日」じゃなくて「今夜」になってるし、他の候補も、ghn =「ご飯」 のつもりが、ごふね?とか「画風に」とか「ご本人」とかになっているのが面白い。kyn も「急に」になってたり、kyとnghで区切られて「こや人間は」と謎の文章になっていたりして、この辺がwktk記法の曖昧さを物語っている。

最後に、kwsk (詳しく) を出させたいので、kwskosetkds (詳しく教えてください、のつもり)。

=== kwskosetkds  こわさけ教えてください
=== kwskosetkds  会わせる顔を添えてくだせ
=== kwskosetkds  詳しい記憶を添えてください
=== kwskosetkds  気をしっかり教えて下さい
=== kwskosetkds  子をしっかりおすえつけ下さい
=== kwskosetkds  小きを教えてください
=== kwskosetkds  詳しくお教え戴戴戴す
=== kwskosetkds  気をしかおすえて下さい
=== kwskosetkds  香を挿しおしつけ出す
=== kwskosetkds  気をすこし抑えて下さい

なかなか面白い結果になった (笑)。「気をすこし抑えて下さい」とか、確かにそうも読めるのがなるほどなという感じ。「詳しく」という単語は1パターンでしか登場しなかったけど、学習データの特徴がそのまま出てて面白い。

ちなみにこんなうまくいった結果ばっかりでは全然なくて、例えば snsnjksknkt (先生の次回作に期待、のつもり) と入れるとこんな感じ。

=== snsnjksknkt  そんな品じゃない高価すぎな刀
=== snsnjksknkt  その真に邪な感情か
=== snsnjksknkt  その信念に確信して来た
=== snsnjksknkt  その死の十九カ月間
=== snsnjksknkt  その真の乗客
=== snsnjksknkt  その才能に驚かぬこと
=== snsnjksknkt  その三の述懐のこつゝきに
=== snsnjksknkt  その少年ジャケツケの件
=== snsnjksknkt  その少年も若しこんな事
=== snsnjksknkt  その死に殉かなかつた

青空文庫的にはこのwktk記法はそう見えるのかと思うと面白いし、よく見ると雰囲気だけ合わせてるのがGPT-2の特徴を物語っている。「そんな品じゃない高価すぎな刀」ってどんな刀なの…。

まとめ

ということで今回は、wktk記法の実力を仮検証してみるために、1時間程度だけ青空文庫をもとに学習させた機械学習モデルがどんな文章を作ってくれるかを観察してみた。

このままもっと現代的な文章を使ったらどうなるのかも気になるけど、通常のIMEで使われているような重み付けをつけて普通に実装しても、意外と実用性をもった入力方法になるんじゃないかなという予感がした。

年度末は忙しくて次は一体いつ進展があるかわからないけれど、いつかこの入力方式をIMEにして実際の文章を打ってみたいなと思う。(似たような入力方式ってGitHubとかにないのかな…?IME作ったことないので、本気で作るとたらベースにできるコードが欲しい…。)

kwsk入力で日本語入力を2倍効率化できる?という夢

先日、PC-F配列というものを考えついたという記事を書いて、その後少し練習してみたものの、楽しいは楽しいのだけど結構打鍵するのは大変だった。

でも、しばらく練習していて気づいたのが、そもそも行段系配列って、段だけで実は成立するんじゃないかという仮説。

具体的には、2ch用語kwsk (詳しく) とか wktk (ワクテカ) みたいに、実はそもそも段だけでかなり単語は絞られる。

ということは例えば、

-「今日はとてもいい天気です。」は、「ky h ttm itk ds .」

-「早速いろんな組み合わせを試してみたい。」は、「ssk irnn kmaws w tmst mti.」

になる。

この相互変換って、実はすごく実用的なんじゃないかと思って、これをkwsk形式 (クワシク形式って呼びにくいので、呼称はとりあえずカワサキ形式) と仮称することにして、kwsk形式を出力するスクリプトを書いてみた。

github.com

で、これで出力されたものを例えばSQLiteに保存してDB化すれば一旦試せそうと思って、DB保存部分だけRubyで書いてみた。(ホントは読みも一緒に保存できたほうが良いけど、執筆時点では未実装。)

github.com

これを使って、kwsk形式から日本語になるIMEを実用化すれば、普段使ってるローマ字入力で二倍の打鍵効率を全員が一瞬で享受できることになる可能性があるので、是非とも早く実装してみたい。(実現すればきっと素敵なので、誰かが既に実装してても全然良い。)

まずは上記のスペース混じりを変換するところから始めて、将来的にはドバっと長く打っても直接かな漢字混じりに変換できると理想。実装は多分普通のIMEみたいに実装できると素敵だし、機械学習で実装することもできそう。

とりあえず今回はアイディアだけブログにメモしておいて、すでにこういう入力方式があったりしないか、似たようなこと考えてたとかないかなーと期待しつつ、自分でも少しずつ実装してみたいと思う。

ちなみに、この発想の元になったのは実は英語版のステノタイプで、ステノタイプってほとんどが似たような発想で単語を省略することで一度に打鍵できるようにしている。日本語のステノタイプの情報はほとんど出てこなかったので不明なのだけれど、日本語ステノタイプの情報もあったら是非知りたいなと思う。