無駄の価値

(書く) 瞑想と幸福感

自分の思考を垂れ流すというのは、自分以外にとって価値があったりするのだろうかと思ったりするけれど、このブログの趣旨が「書く瞑想」というのもあるし、最低限の推敲はしつつ、そのまま思考を垂れ流すことにする。

このブログでは何度も書いていることなのだけれど、自分は新下駄配列+Dvorakで思考整理しながら長文を書いているときが一番幸福感が高い。理由は全くわからないのだけれど、誰にも強制されず、瞑想という以外にハッキリとした目的を持たず、かつ身体感覚が快適な方向にもっていくというのは何にも代えがたい自由や幸福というのがあるのだときっと思う。

純粋にタイピングをしているときというのは、自分が打っている指の感覚や聞こえる打鍵音に集中することができるし、特に書きながら思考整理をしているときはただ純粋に書くことに集中しているので、たとえその結果出てきた文章が陳腐なものだったとしても、その時間のなかで体験する至福感や結果として得られた整理された脳内状態というのは、自分にとって何にも代えがたい。

思考整理とその価値

以前はこうした思考整理は自分にのみ価値があるものだと考えていたので、Notionなどのツールにただただ書きなぐっていたのだけれど、最近は少し考え方が変わって、いわゆる瞑想である座禅、只管打坐の場合も複数人で行ったりするし、自分はエッセイなどのとりとめのない文章を読むのは嫌いではないので、これだけネット上に価値のある情報が多くあるなかでたまに無価値なものがあっても良いだろうという考えのもと、いつしかブログに書くようになった。

ブログに書くという行為は自分しか読まない文章を書くときよりも多少緊張感があるのだけれど、そもそも書くという行為は記録が前提なので、どこかで他人に読まれる文章として書いているのではないかと思う。他方で、自分が他人に「リアクションしてほしい」と思う文章は全く違う趣向で書くし、文章を書くときのモチベーションというのは思ったより複雑なのかもしれない。

このブログではないのだけれど、以前はよくリアクションがほしくて投稿をしていたので、それなりに他人の存在を意識して文章を書いていたのだけれど、最近は自身のTwitterにしてもあくまで自分自身と向き合って書いているので、単なる記録としての価値の方が大きいかもしれない。どの瞬間にどんなことを意識していたか、思考していたか、やはりこれも自分にとっては価値あるもので、ではこれを見ている他人にとってどんな価値があるのかは正直わからない。

仮に受け取り側の他人に価値があるとすれば、それは小説などと同じで思考を追体験できるということなのかなと思うのだけれど、多分ただ長々とした文章というのは読むに辛いし、追体験したいと思う何かがあって初めて読もうと思うのではないかと思う。

普通や無駄の尊さ

価値のある文章やコンテンツというのは豊富にネット上や書籍上に存在している。SNSアルゴリズムもそうした方向にチューニングされているし、親しい関係性にある人以外の "どうでも良い投稿" というのは面白いのだろうかと思ったりもする。

でも自分自身は結構「普通」の投稿こそ読みたいなと思う方で、SNSによく上げられがちの多少脚色された、少し "盛った" コンテンツよりも、そのまんまのありのままの投稿が読みたいなと感じる。

自分が知らないだけなのかもしれないけれど、そういう普通の投稿や発言って、SNSやリモートワークでは触れる機会すらなくなりがちで、非常に尊いものだという感覚が自分のなかにはある。

コロナ禍の影響もあって自分はだいぶ長いことリモートワーク中心の生活をしているのだけれど、リモートワークというのは自然と無駄は排除される傾向にあり、その無駄の排除によって欠落するコミュニケーションロスは想像以上に大きい。意識してはいても無駄は自然となくなってしまうので、無駄というのはとても尊い

無駄は嫌われるし、普通というのも嫌われるのだけれど、そういう無駄や普通こそ実は大切なエッセンスであって、欠落してはいけなかったんだと気づかせてくれる分、リモートワークという体験を社会的に多くの人が経験したコロナ禍はそれなりに価値があったのだと思う。

時間というのは誰にとっても貴重なものであって、誰しもベストな使い方をしたいと思いながら過ごしている。それでも、無駄や普通には案外価値があるというのは、なんとも皮肉なものだなと思うし、日々瞑想していると、実はそういうパラドックスというのは多くあるのかもしれないと思う。

瞑想は最大の無駄?

無駄という観点でいうとそれこそ瞑想なんかは最大の無駄に違いない。ただただ座って何も考えない、ただ感覚を研ぎ澄ませて感じるだけというのは、一見本当に無駄なことのように思う。

でもそういう無駄な時間を多くとることで、思考は整理され、心は落ち着き、身体は整うというのは、人生の最大のパラドックスではないかと思う。

何もしないということは実はものすごく難しいことで、座禅をただ10分やろうというのも相当に勇気の要ることだと思うし緊張するし疲れることだと思う。たとえ10分でも尊いと思っていればいるほど、ただ10分座っているだけ、只管打坐をするというのは本当に勇気の要るし無駄に感じることだと思う。

でもそれだけ緊張感や疲労感があるということは、何もしていないというのは見た目だけだとわかる。きっと、身体というのは自分の思考の届かないところで、睡眠などと同じく、無意識下で本当に多くのことを行っていて、それを意識しようと必死に意識下に登らせるだけで、疲れるような、そんなすごいことを人間は毎日この瞬間にやり遂げているのだと思う。

自分は科学者ではないので瞑想で何が行われているとかは全くわからないのだけれど、それでもその一見全くの無駄に思える瞑想が今の自分にとっては何事にも換えられない価値をもっているのは確かだし、それがリモートワークでいうところの無駄と同義に近いんじゃないかと思う自分の直感も、あながち間違ってはいないのではないかと思う。

転職5ヶ月目の振り返り:安心感の有り難さ

転職して以来、目まぐるしく毎日を過ごしていたので、4ヶ月ほど経ったここらへんで一度内面を振り返ってみようと思う。

キー配列の選択とストレス度合いの相関

そういえば、新下駄配列とProgrammer's Dvorakを習得して気づいたことが、自分は急いでいるときほどQwertyを使いがちで、精神的に余裕があると新下駄+DvorakPを使いがちという感じ。これだけでも自然とストレス度合いが把握できる。

両者一長一短あって、Qwertyは速度面は申し分ないので短時間の高速打鍵には向いているし、他者のパソコンなど環境変化に強く、ショートカットキーなどの不便も少ないので、何も考えることなく打つことができる。一方で指への疲労は蓄積しがち。

新下駄とDvorakPは長時間の打鍵に非常に向いているものの、エミュレータなど専用の環境が必要というのもあるし、現段階の自分は瞬間打鍵速度がさほど速くなく、一部の低頻度キーの打鍵に迷うので、ストレスがかかるとついQwertyに切り替えがち。

とはいえ、こうした特徴はどういう配列にもいえることなので、何に重きを置くかが重要だと思う。新下駄やDvorakPは学習コストは高いものの、一度習熟すればQwertyと変わらずボーッとしても打てる点は変わらないので、最終形態の理想像で決めるべきかなと思う。

その点、自分が新下駄+DvorakPを選択した理由は、落ち着いて長時間ストレスなく打鍵できること。この目的は十二分に達成できているし、こうやって落ち着いて過去を振り返るような文章打鍵には最適。ここから瞬間打鍵速度を上げようと思うと辛いものがあると思うけれど、たいてい、瞬間的に高速で書くべきものは少ないし、短時間ならQwertyでも問題なく、腰を据えて長時間、思考を練りながら長文を書くスタイルにはちょうど良い。

余談: vimキーバインドとDvorakP

せっかく打鍵について触れたので、長い間苦労していたキーバインドvimとの連携について触れると、正直慣れてきて、DvorakPでもQwertyでも問題なくどのツールも使えるようになった。とはいえBlenderやUnity、UEなどの3Dツール群などはQwertyが最適であることには変わりなく、自分はCtrlキーを押すとQwertyに切り替わるCmdQwertyやCtrlQwertyのようなレイヤーは必須だと思っているので、Qwertyの良い面は良い面で共存していくべきというのが自分の考え。

安心感の大切さと有り難さ

さて、本題である転職5ヶ月目について。4月からの新生活によって随分といろんな経験をして、以前との会社や環境との違いを否応なく体験したなかで、キーワードとして最も印象に残ったのは「安心感」だった。

安心感というものを何で感じるかというのは本当に人それぞれであって、たとえ猛暑のなかでも、苦行の中でも、逆にいかに快適な環境でも、幸福感を感じる人もいればそうでない人もいる。

自分がここ数年大切にしている「マインドフルネス」についても、決して万能のツールではなく銀の弾丸ではないので、これさえしていれば必ず幸福だとか、必ず安心が得られるというものでは決してない。

マインドフルネスや瞑想を重ねることで気づきがある分だけ、マイナスの影響として、今まで気にならなかった些細なことに気が向くようになったために騒音などが気になることもあるし、同様に音楽や娯楽や嗜好品を断とうとすることでかえってストレスが強まることだってある。

ただ、瞬間瞬間ではいろんな悩みや苦労に苛まれても、気づきの多い生活をしていたほうが長期的には良いバランスに至ると自分は考えていて、さっきの打鍵の話と同様に、自分が無意識に受けている感覚やストレスといったものに常に目を向けていくことは、実際に気づきをどう処理するかという部分とは分離した上で、大切だと思う。

そういった気づきのなかで、改めて、「安心感を得る」ということの有り難さをまじまじと感じた4ヶ月だった。

どんな選択でも最終的に全肯定する、許容する

安心感というのは、自分一人の内面改善だけで100%得られるものかというと決してそうではないし、かといって無闇矢鱈に内外の改善活動だけをして得られるというものでもない。

安心感というのは自分の印象なのだから、最終的にはどんな状態も肯定することで得られるのだけれど、やはり瞬間瞬間はいろんな不安がつきまとうし、不安というのは適度に必要なものであって、その移ろいゆく心象風景を自他ともにどうやって認めるかという部分の難しさが、総じて安心感に繋がる。

例えば、安心感が広がっている組織というのは、みんなが安心して自律した行動を取ることができるし、ふとした瞬間においても落ち着いて考えることができる。でも、どんなに安心感のある環境や組織でも不安は必ずあるものであって、そうした必然的に湧き上がる日々の大小の悩みをどういうふうに乗り越えていくか、その一つ一つが個性を作っていくのだなと思う。

そういう意味で、個性というのは一つ一つの決断のなかで必然的に生まれてくるものなので、あとはいかにして個々の課題や作務に無心で向き合えるか、それこそ安心して目の前のことに打ち込めるかというのが、総じて大きな違いを生むのだと思う。

自分自身は日々、単に目の前のことに向き合っているだけなので、こういう過去を振り返る瞬間を除いては、どういう大きな流れのなかに自分がいるのかはわからないのだけれど、こうした一つ一つの選択への真摯な向き合いが最終的な結果に繋がるのだと信じたいし、たとえ選択に迷ったとしても、最終的にどんな決断や選択をしても肯定できる自己を維持することで、最終的に自他共に安心感を得られるように努力していきたい。

最終的な全肯定というのは、一見して思考放棄のようにも感じるのだけれど、選択というのは二者択一でもなければ、選択により得られた経験は必ず蓄積するのだから、物事の良し悪しと関係なく自己肯定することは、全てにおいて大切なスタンスだと自分は思う。

その前提において本当に難しいのは、実はバランス感覚であって、自己肯定するからといって驕ることなく、必要なアクションは起こしつつ一方で謙虚に過度に求めないということが、実は何よりも難しく有り難く、毎日努力していても得難いものだと痛感する。

USBでUbuntu (persistent)を持ち歩くときのメモ

自宅ではUbuntuマシンを作っているのだけれど、久々にUSBで持ち歩けるUbuntu (Liveかつ永続ストレージあり (persistent) )を作成しようとして地味に苦戦したので、最も参考になった記事をメモ。

qiita.com

ポイントはmkusbを使うところ。Live環境で以下を実行し、mkusbからブータブルなPersistent Live USBを作る。

sudo add-apt-repository ppa:mkusb/ppa
sudo apt update
sudo apt install --install-recommends mkusb mkusb-nox usb-pack-efi

mkusbでは、grubmsdosではなくusb-pack-efiを選択するのもポイント。

ちなみにUSB起動だといろいろ時間がかかるので、外付けSSDが使えるとベスト。

森林浴のできる都心暮らしと、内面の変化

今日は引っ越した場所に近い "都会の里山" で森林浴をして、とても癒やされた。

とても良い森林で、このブログの趣旨にも合っているように思ったので、多少恥ずかしいが自撮りしてブログのヘッダ画像にしてみた。

引っ越しの目的は職場に近い場所への移動ではありつつ、かつ里山に近いという、まるでドラえもんの裏山のような立地に住んでいるので、個人的にとてもバランスの良い場所だなと思う。田舎暮らしも夢見たのだけれど、自分も妻も難病ということもあり、都会から離れるのはリスクが大きく、幸福度と収入のバランスを考えていまの暮らしに落ち着きつつある。

現在の場所に引っ越したきっかけは、ふと妻と休日に出かけてバスで横を通ったときに、正直直感的にここなら10年ぶりに引っ越したいと思ったからであって、ある意味この引っ越しありきで全てを決めた感がある。

転職自体もたまたまで、フリーランスのままでいるという選択肢もあったのだけれど、仕事内容的に今の会社のこと以外はしなさそうだったし、それなら引っ越しに有利な正社員雇用を得られるなら是非にと、よろこんで就職して早速引っ越した。自分かなり優柔不断なところがあるので、こういうものに背中を押してもらえると決定が早くて心強い。

では引っ越してよかったかどうかというと、前記事にも書いた通り、最初は慣れない通り沿いというのと、景観最重視の壁無しバルコニーによる直接騒音に慣れず、一ヶ月中の数日しか熟睡できない始末だった。でもそれも今では耳栓なしで熟睡できるようになったので、一ヶ月という時間はかかったものの、人間の適応力は本当にすごいと思う。

一番期待していたバルコニーも、最初は騒音のせいで楽しめず、AirPodsノイズキャンセリングをフルにしてようやくリラックスできていたが、今や普通にバルコニーの騒音のなかでもリラックスして本を読んだりブログ書いたりできるのだからすごい。いまや騒音があるくらいの方が余計な雑念がなく落ち着くとすら思う。

引っ越してすぐの一ヶ月間は、騒音に慣れられる気がしなくて、正直毎日のように元いた場所に戻ることを考えていたのだけれど、引っ越しうつのブログを読んだり、騒音の向こう側にあるものを意識すると良いという記事を読み、騒音を "敵" だと考えず、自分を "被害者" だと考えないようにしたりした。そしてできるだけ引きこもらずに積極的に知らないお店に行ったり散歩コースを開拓しているうちに、自然と気持ちも明るくなって慣れることができた。

こう考えると、騒音や環境の変化といった外的要因の変化は、正直相手方を変えることは難しい。人間関係もそうで、相手側を変えようとすることは無理なことだ。こういったものから受けるストレスを、マインドフルネスや意識改革によって変化させ、マイナスどころかプラスに変えることができるというのは、本当にすごいことだと思う。

もちろんこうした適応というのは、内部的な心理面の変化もありつつ、例えば冒頭に紹介した "都会の里山" であっても、地域ボランティアの方々が大切に維持管理していることに気づいたり、他にも家の近くに個人経営の商店を見つけたりとか、街のあらゆるエネルギーによるものであって、本当に万物に感謝すべきだと思う。内面を変えてマナの受信力を上げるのも重要だけれど、街自体、場所自体にマナがあるということも大切かつ根源的なことなので、やはり地域全体に活力があるというのが、素敵な街に繋がっているのだと思う。

雑記: 改造ポメラと書く瞑想

ここ最近、このブログでも一度紹介した改造ポメラでいつも寝る前に雑記をして寝るのだけれど、たまにはブログで公開しても良いかと思ってそのまま雑記を書き出してみることにする。

電子文具としてのポメラ

そもそも改造ポメラとはいえ、新下駄配列+Programmer's Dvorakで文字打ちができるように改造したに過ぎず、使い方は至って普通のポメラと同様に使っているのだけれど、文字書きを終えたあとにそのまま文書をgitにcommit + pushして管理できたり、あまり使いはしないけれどpythonとかも好きに書けるのは便利ではある。(新下駄Dvorakの入力システム自体もRubyで直接ポメラ上のDebianで開発できた。)

普段のシステム開発や文章書きはMacBookWindowsノート・デスクトップで行っているので、ポメラは本当に思考整理にだけ使っていて、極力オフライン動作することでポメラ本来の使い方に近いようにしている。そうすることで文房具という感じが出てとても落ち着くし、自分は昔のワープロが好きだったのでなんだか親近感が俄然湧く。

ポメラについては数年前から複数のモデルを愛用していて、今のように改造までして本格的に使うに至ったのは本当にここ一年くらいなのだけれど、それまではごく普通に手軽な電子文具として日記を書いたりしていた。日記も日記で手書きで書いていたりもしていたのだけれど、なんだかタイピングしたほうが落ち着くことも多かったので、無駄にカフェに行ってはポメラを広げてただただ日記や雑記を書くこともあった。

引っ越しと書く瞑想とマナ

なぜ自分が最近ポメラで思考整理することが多いのかと考えると、やはり引っ越しと新生活が大きく、振り返ると以前の就職の際も同様にポメラの記事数は多く、それ以前もノートの記載は転機が多かった。自分は思考整理を文字書きで行うことが多いようで、ブログのタイトルにもしている「書く瞑想」というのを、意識する前から多く行っていたようである。

書く瞑想に限らず、瞑想というのは心の平穏と集中を保ってくれるのに大いに役に立っていて、最近はツールというよりも生活の一部、生活そのもの、人生そのものになりつつあるように思う。

瞑想というのは、座る瞑想、歩く瞑想、食べる瞑想、呼吸瞑想などありとあらゆるものが瞑想となり得るもので、座禅だけが瞑想というわけではなく、例えば掃除や洗濯のような作務も立派な瞑想の一つだと自分は思うし、タイピングも写経と同様に瞑想行為の一つであると考える。

じゃあなにが瞑想で瞑想でないのかというと、「気づき」が多いと瞑想で、そうでなくただ雑念に追い込まれて嫌な気分になるようであれば瞑想ではないのかなとも感じるし、いやいやそうでなくて、もはや嫌な気分になっている自分を客観的に観察するとか、雑念を俯瞰するということも瞑想に含めるのであれば、もう実は瞑想でないものというのはなく、瞑想というのはただの概念や哲学ではないかと思えてくる。

ただ個人的には宗教とは少し切り離して考えるべきな気はしていて、マインドフルネスというのが宗教と意図的に切り離されているように、そのルーツの一つである瞑想も、一つの考え方やツールという以上の意味を持たせないほうが自分は良いように思っている。というのも、気づきから得られる洞察は各個人で違って然るべきであって、そこに至る過程や体験を瞑想は提供しているに過ぎないと自分は思っていて、このシンプルさや純粋性はそのままにしておいたほうが、UNIX哲学がそうであるように美しいと思う。

( 引っ越しの話とは脱線しつつあるものの、UNIX哲学と瞑想を並べて考えたのは個人的には初めてなのだけれど、こういう類似の思考パターンを一種の圏論的な類似性でみるというのは他でも多くみられていて、最近読んだ記事ではHTTPキャッシュの考えをドキュメントの新鮮さ管理に使っている例が個人的に面白かった。)

さて本来書きたかった引っ越しの話に戻ると、自分はあまり引っ越しというのは得意でなく、旅行とかも得意でないほうなのだけれど、多く旅をすると賢くなるというのはなんとなく理解できたように感じた。

今まで慣れ親しんだ土地を離れて違うところにいくと、普段いかに自分自身が周りとの絶妙なバランスのなかで生きていたのかがわかる。よくいくお店や公園であったり、馴染みの店員さんや病院の先生、薬剤師さんであったり、美容師さんであったり、普段は特に意識することのない関係性のいろいろが、こういう転機のときはまるで走馬灯のように懐かしく振り返られたりする。

こうした周りの小さな多くの力によって自分自身というのは支えられていたのだなと思うと、これこそ本当にマナであると個人的には思う。自分がいかに多くのマナによって助けれられていて、逆に自分自身のマナもいつの間にか他人に力を与えていることだってあると思う。そうした、ほんの少しの小さい力の積み重ねが、気づくと総体として大きな集まりになっているのだなと、引っ越してふと街を眺めていると感じる。

こうしたマナは自然も人間も同等に持っていると思うし、一見不必要に感じるような騒音であったり隙間風のようなものも、マナの表出の一つであると自分は思っている。全ては表裏一体、トレードオフであって、あるエネルギーを負と捉えるか正と捉えるか(あるいは悪とするか善とするかでも良いし、良し悪しでも良い)は、先程の気づきに対する洞察と同様、受け取る側の自由であると感じる。

自分自身も、地球や街から見れば小さな一個体であるけれど、よく観察すると多くの小さな生命から構成された複雑な有機物であって、一であり全である。この事実が何事においてもとても大切だと思っていて、例えばある風の音一つをとっても、複数の要素の複合体として多くの情報を持っていて、それをどう捉えるかは無限の可能性がある。

般若心経にもあるような色即是空、空即是色も同様であると思うのだけれど、つまりは一つの現象に見えるものも実は無限に細部や要素があって、かつ毎時常に変化し続けているという事実は、実は非常に衝撃的であると自分は思う。海岸線を辿るというのは実は無限に細部があって難しいのと同様に、実はこの世界の見え方も本当に一人一人無限に違っていて、自分がこうして書いている記事や言葉が他人に伝わるというのが本当に奇跡であるということを感じる。

だいぶ話が広がってきたけれど、引っ越しや移動というのは大きなエネルギーが必要とされるし、自分にとって大きなストレスでもあるのだけれど、こうして多くの気づきがあったり、こうした表現のチャンス、思考整理の新たなチャンスを与えてくれるという意味で、本当に有り難いことだと思う。

ACTH分泌不全症 闘病記 (4): 外出恐怖との戦い

久しぶりの闘病記。(毎回注釈を書くのだけれど、以下あくまで個人的な症状の記録で、個人差が大きいので注意。特に対処法は医師とご相談を。)

久々の心機一転、引っ越し。

4月から新しい場所に引っ越したのだけれど、引っ越し自体10年振りで、いま記事を書いているパソコンもようやく荷ほどきしたばかりで、ネットに繋ぎたくてもアダプタ等々が見つからず、結局VSCodeでローカルに書いている有様。

そもそも引っ越ししようと決意したのは、転職が大きいきっかけではあったのだけれど、近年のリモート主体の働き方もあって実は一応前のところに住み続けることもできた。けれど今回は職場近くでありながら自然に囲まれている、久々に引っ越してみたい場所を見つけることができたので、10年ぶりに思い切って引っ越すことにした。

大きな引っ越しというのは正直学生時代以来のことで、それまでは闘病のために田舎に帰ったり(また都市部に働きに戻ってきたり)といったことはあったものの、新しい場所に引っ越すというのは本当に久しぶりのことで正直戸惑いを隠せない。

とはいえ比較的近距離の引っ越しであることもあり、タイトルと反して最初の2週間くらいは新しい場所にとても親近感が湧いて、たくさんの発見や驚きがあってとても楽しく過ごした。

持病の下垂体前葉機能低下症(によるACTH欠損からくる副腎不全)もあり、買い物や外出はあまり得意ではないのだけど、引っ越しに伴う買い出しや移動は家族や業者さんの支えもあって特に不便なく行えた。

外出時の発作の不安

ただ、ゴールデンウィーク間際になってやはり無理がたたって、かなりだるい日が増えたため、休み中はコートリル錠を増量してゆっくり回復に努めたのだけれど、一度仕事のため自転車で出勤しようとしたときに強い不安症状と瞬間的な思考力低下と脱力感(あとで考えると軽い低血糖症状?)があったため、その時は事なきを得たものの、数日強い外出不安に襲われた。

毎年冬場にまれに似たような症状が起こって、その度に数日、回復のためもあって引きこもったり、少しずつ様子を見ながら外出したり買い物したりして回復期を乗り越えていく。だけれど、こればかりは何回経験しても怖いもので、どんなに数日前まで元気で過ごしていようが関係なく、一種のフラッシュバック的な恐怖感に苛まれる。

どんなときに起こりやすいかは決まっていて、やはりだるさが直前数日間続いていて、日によっては既にコートリル錠を増やしていて、それでもだるくて渋々外出をするとこうなる。いざ書き出すと低血糖発作の一種のようにも思うのだけれど、いざ症状が出るとパニクるのと、回復期でだるいのもあって難を逃れるとなかなか病院に行こうという気が起きず、よほどヤバいときを除いてはたいてい後日談として主治医の先生には後から話すことになってしまうので、結局理由はわからずじまいになることが多い。

さらに厄介なことには、実際の症状がないときでも、似た環境とだるさなどの身体要因が重なると、フラッシュバックから似たような発作が起こることがあり、一種のパニック障害のようになってしまっているのが本当にたちが悪い。

恐怖感を克服すべきなのかどうか

上に書いたような症状は、一年を通して考えると非常に少なくて、基本的にだるい日は無理をしないで休むようにしているし、服薬量も制御するので難を逃れることが多い。けれど、やはりどうしても避けることができない予定や買い物があったりするし、仕事で忙しいと服薬コントロールが散漫になることがあるので、こうした一種の発作的なことがやはり稀に起こる。

もう服薬を開始して何年も経って、徐々にノウハウは溜まってきているものの、どうしてもこの恐怖感だけは克服することができない。そもそも、自分の場合は正直大半が恐怖心からくる不安症状だと思っているのだけれど、上に書いたように稀に本当に低血糖症状のような発作が起こるため、完全に恐怖心を消すというわけには行かない。

このブログの闘病記も、正直難病という治らない病気に対して毎日服薬制御だけで日々を普通に過ごしている人間が書き残すのも最初はおこがましい気もしていたのだけれど、唯一闘病らしい部分といえば、やはりこの恐怖心との戦いだと思う。

3ヶ月に1回きちんと大学病院で定期検査を受けているとはいえ、3ヶ月というのは思いのほか長いし、間に何かあったときは短くするのだけれど、何かあったときに連絡を入れるエネルギー(病院の受付で何回も説明したり)や、通院の負担を考えると自然と通院回数を減らしたいというバイアスが働いてしまって、案外のその間は悩みながら対処して医師には後日談になってしまうことが多々ある。

特にこうした心理的な不安はなかなか相談しづらく、実は一度主治医ではない普通の心療内科に相談したこともあったのだけれど、特殊な病気ということで実質診療を断られてしまった。これもあって次回こそは主治医のところの心療内科にと思うのだけれど、そもそも日によっては複数の科に行くこともあるし、通院時間、待ち時間を考えてしまい、また後日談として話すときは喉元過ぎれば熱さを忘れるというのもあり、言い出せずじまいになってしまう。

もちろん、服薬とかを抜きにした単なるカウンセリングとか、そういうものを別途受けるという手はあると思う。だけれど、結局自分自身は毎回この外出恐怖を克服できずに、例えば遠方に行ったりすることは極力控えたり、仕事の出張は極力断ったりしてしまう。

恐怖感って、必要だからこそ身体が発しているのだと思っていて、過剰な不安や恐怖による萎縮もよくないとは思うのだけれど、完全に無鉄砲に行動するのも他人に迷惑をかけてしまうことになるので、難しい塩梅だなと常日頃思う。

調子の良いときは普通に生活できて、一時的にであれば多少無理することも可能だし、一年の大半は自分自身も病気のことを忘れて生活することができるのだけれど、こうやってたまに否応なく持病を自覚することがあり、極端なときにはまるで薬に人生を制御されているような錯覚に陥ることもあるのが、この病気のなかなか難しいところだなと思う。

結局のところ、毎日いかに自分の身体の状態をチェックして、いざというときに対処できる備えをして安心感を持ちつつ過ごすのが良いと思うのだけれど、この部分は自分自身、未だ答えを見つけることができていない部分でもある。

過度な運動をしないで健康を保つ難しさもあるし、できないことが多くても幸福感を保つ難しさもある。自分はそれに対してマインドフルネスなどをうまく活用して少しずつ乗り越えてきているつもりではあるけれど、失敗するたびに自信がなくなるので、多分今後もこうして一進一退しながら何事も上手になっていくのかもしれないと思う。

博多駅筑紫口側の路上お弁当屋さんマップ (2022/4)

路上販売の情報って案外ないので、マイマップ上にプロットしてみることにした。

博多駅筑紫口側には結構路上販売のお弁当屋さんが平日の12時前にはたくさん出店されていて、安くて美味しく、なかには超本格的なキッチンカーで高級弁当なんかも売ってたりして、個人的にとても重宝していた。

写真は撮りそこねていて、キッチンカーの写真しかないのだけれど、こんな感じ。キッチンカー以外の路上弁当屋さんは、もっと庶民的?な感じ。

今は引っ越してしまって利用していないのだけれど、こういう情報がネット上にたくさんあがるようになると、勤め先とか引っ越し先の楽しみが増える気がする。