しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

あるがまま or not

前の記事の最後に、「あるがまま」という言葉を出したのだけれど、あるがままであるというのは非常に難しい。

そもそもあるがままってなんだろう。

自分自身についても、これってあるがままなんだろうかと思うことがいくつかあって、

これらについて、多分調べればすぐ答えが出てくるのだろうけれど、ここではあえて一つ一つ自分で考えてみることにする。

サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想

二大瞑想としてよく挙げられるもので、これらの瞑想についてよく挙げられる点で、宗派や考え方によって異なるのが、

  • 一点に集中するべきか否か
  • 呼吸を制御するべきか否か

というのはよく論じられているように思う。

これらは、自然な状態というのを何と捉えるかによって多分考え方が大きく異なっていて、姿勢を正して良い呼吸を行うのが正常な状態で、あるがままだと捉えるならば、そうなるし、逆も然り。

といっても、いずれもそんな厳格なものではないし、最終的に目指そうとする理想自体は変わらず、到達するプロセスが違うだけだと思うので、正直好み。

ちなみに自分自身はどちらの考えも適宜取り入れていて、気分で使い分ける。

技術、エンジニアリング

これもよく挙げられるキーワードな気がしていて、わかりやすいところでは『Final Fantasy X』という作品においてワッカという宗教に敬虔な青年が、実は寺院内部では教えに背いた機械を使っていることを知って落胆・憤慨するというシーンがある。

新しい技術についてどう捉えるかというのは本当に難しいテーマだと思うのだけれど、そもそも寺や神社を支えている建築も当時の最新技術であるはずだし、彫刻についても然り、結局は、フィーリングと合うかどうか、昔ながらのものにマッチしてるかどうかで決めているだけだと自分は思っていて、これも好みだと思う。

ここで大事なのはいかに空気を読むかなんだろうなと思っていて、例えば山林の奥深くにそびえる昔ながらの仏閣に、急にメカメカしい機械があったらそりゃあ違和感を覚えるだろうし、逆に超最新技術で作った仏像が、ただの木材でできていたならば、見分けがつかず取り入れられる可能性だってある。

そういえば NHKクローズアップ現代での新海誠監督のインタビューで、

最初は事実の記憶であっても、それがだんだん物語の形にしていって残って伝えられていくということを1,000年、2,000年と繰り返してきたのが人間だと思います。それが神話ですし、昔話ですし、童話ですし、そういうものを読んで人は育っていくわけですよね。

ですから、エンターテインメントとか、物語とか、漫画とか、アニメとかを作ってる人たちは、みんなそういうことを多かれ少なかれやっているような気がしますし、僕も何千年も続いてきた営みと同じようなことをパソコンを使ってみんなでやっているという気持ちが、とても強くはっきりとあります。

という発言があって、自分は本当にその通りだなと思う一方で、やっぱりネット社会とかリモートワークに対する違和感はとてもある。

そういう、新しい概念も含めて溶け込んでいったほうが良いということで、「あるがまま」であるとするのか、懐古していくべきなのだとするか、これは永遠に答えがないように思う。

ちなみに自分自身の今の考えは、等価交換ではないけれど、新しい技術を取り入れたところで銀の弾丸というものは存在しないし、結局パラダイムシフトが起こるだけで前はあった問題が解決されて新しい問題が出てくるだけで、つまりどちらの問題のほうが自分自身にとって深刻なのかが重要。

過去の問題点の方が深刻だったという人たちは、新技術でそれが解決されることに賛同するだろうし、新たな別の問題が深刻である人たちは反対する。ここで対立が起こるのは必然。

結局、そのどちら側に自分がつくのか、あるいは傍観するのか、評論するのか。

そのどの立場に自分がいるかは、それこそ「あるがまま」に決まることかなと。

薬、処方、漢方

さて話題を変えて、「薬」について考える。

自分自身、下垂体前葉機能低下症(ACTH単独欠損)という難病を抱えているので、個人的には常日頃考えている問題ではある。

自分の場合、服薬しないと生命維持に支障があるので、もはや薬を飲まないという選択肢は存在しないのだけれど、これって「あるがまま」なんだろうかとほぼ毎日思う。

これについても正直、前節の「技術」に対する議論で個人的に答えは出ていて、どちらが自分にとって自然に感じて、深刻なことなのかで決まる。

よく歴史モノで、過去もしこうだったら、みたいな話があるけれど、それでいうと自分自身が難病を持つことになったのは必然だったと思うし、それから毎日薬を飲むようになったのも必然だったと思う。

そう考えると、避けようがないことであって「あるがまま」だったといえばそうだし、でももし自分が飲んでいる薬が非常に貴重なもので、手に入りにくいような世界線だったとすれば、必然は変わっていたはず。

一方でやっぱり毎日薬を飲んで永らえるというのは、自分自身、違和感もあるわけで、もし自分が高齢でいつ引退しても良い年齢だったらもっと真剣に捉える問題かもしれないし、逆に働き盛りな年齢だからこそ、"普通に" 働いていることが自然に感じるのだとすれば、今が自然なのかもしれない。

自分自身、いつかは薬を飲まなくても普通に過ごせるような未来がくればと思っていたりもするし、でもそれがもし実現したら、さっきの技術の議論であった新たなパラダイムシフトなのではと思う。つまり社会にとってはどちらでも良いこと。

これも結局答えが出る問題ではないのだけれど、毎日の選択というのは自然に行われることなので、その時々の自分の判断に任せたいと思う。

思考するか感じるか

さて、今まである意味どうでもいい禅問答をしてきたように思うのだけれど、そもそもこうやって思考すること自体が「あるがまま」なのかという議論もある。

これはものすごくたくさん議論されてきたことなのであくまで自分のスタンスだけ書いておくと、思考しなくて良いに越したことはない、と考える。

頭で考えてこねくり回した結論より、自然に出てきた結論の方が抵抗感がないのは当たり前のことだと思うし、後者の方が楽。

ただ、ヒューリスティックスという心理学用語に代表されるように、自然に考えた結論というのは短絡的であることが多いし、誤っていることも多い。

ここでもやはり選択が必要で、パッと思いつく結論を試してみて、何度も何度も失敗するのが自然だと感じるか、それとも綿密に練った設計や理論により失敗を防ぐのが良いと思うか。あるいは何もしないのか。

そして、「思考する」というコストの高いことをやるだけの根拠がその対象についてあるのかどうか。

こう考えると「あるがまま」というのは、その人個人個人が持っているコンテキスト、生き様、地域、背景によって様々であって、同じ「あるがまま」でも結論が異なるのだと自分は思う。

ここで大切なのは、結論ではなく過程ではないかなと自分は思っていて、一見意外に思える結論にたどり着いたとしても、その時の環境では必然だったということは多々あって、それを後々に検証できることや、事実は事実として捉えられる寛容さが必要。

それにしても、こうして個々人が考えるいろんな思考をオンラインで残せるというのは素敵な時代だなと思いつつ、結局昔の人も紙や石に同じことをしていたわけで、本質的には今も昔も変わっていないのだなと思う。