ジャッジをしない
前の記事で、考えないことの大切さに言及したのだけれど、さらにジャッジしないことはもっと大事だと思う。
確か同じタイトルで以前記事を書いたことがあるように思うのだけど、それでもあえてまた書くのは、ジャッジしないということは意識をしていないととても難しいから。
物事の多面性と、言葉の二面性
例えばなにか悪いことが起こったりすると、つい「今日は最悪だー」とか、「これは不吉な予感だ」とか思ったりする。
逆もそうで、優秀な同僚がいたら、「優秀」という言葉が物語っているように、良い悪いというレッテルを貼る。
こうして、本来多面的である物事に、だんだんとわかりやすい二元論的なレッテルをつけて管理をしていく。これがジャッジするということ。
頭で考えるというのは、論理的に考えやすい単位に物事を整理していくということで、だんだんと物事を単純化して考えていく。
思考整理をしているときは、各事象が多面的であるということをちゃんと理解しながら分類しているのだけれど、頭の中で何回も何回も記憶を反芻(はんすう)していくうちに、事実が捻じ曲げられて、言葉の典型的な意味の通りに誤解してしまう。
考えないというのは、なにも起こらないということではない
今まで書いた記事と矛盾するようだけれど、考えないというのは、なにも起こらないわけではない。
頭や身体は自然と何かをしているし、無意識のうちにすべては整理されていく。前記事でも言及したように、もちろんすべてが正しく整理されるわけではなくて、誤っていることもある。(そもそも正誤とか良し悪しというのは主観。)
ジャッジするということも、頭の中で自然と行われているので、あえて自分自身で意識的に行う必要はないし、必要性が出てくればどうしても考えたくてしょうがなくなり、行動は必然的に起こる。
だから、自分自身は「あえて」なにもしなくて良いし、考えなくて良い。ただ起こっていることを観察して、見つめる。
頭の中で浮かんでは消えていくいろんなことを、ただただ観察していると、そのうちふと、どうしても気になって何回も反芻される物事が出てくる。
意識的に考えるべきことは、その時点で明確になってくるし、そういう反芻されることは自然と何度も思考してしまうので、もはや意識しなくても考えてしまう。
だから、自分自身であえて思考することも、ジャッジすることもしなくて良い。
大切なのはただ起こっていることを見つめること、感じること、感覚を研ぎ澄ますこと。
感覚が鈍っていると、その分自然な判断も鈍ってくるし、本当の物事というのも、言語や思考のフィルターで埋め尽くされて見えなくなってしまう。
言語というのは便利だけれど、あくまで伝えるために意味が単純化されているという事実を忘れて、自分自身の判断に言語を適用してしまうと、誤った判断に繋がる。
だからこそ、勇気をもって、考えない、なにもしない。
自然と身体から浮かび上がってくることに任せて、あるがままに行動する。自分はただそれを観察する。