回復力と"マインドフル度"の関係性

最近季節の変わり目で、若干体調を崩していた感があったのだけれど、今日の福岡は非常に温かかったのもあり、ずいぶん調子を取り戻した感がある。

そういう、一種の運命めいた体調の変化というのはどうしようもなく、例えば自分は寒いのが非常に苦手なので、そうしたことはある種仕方がないと切り捨てて考えているのだけれど、一方で、そういう運命めいたバイオリズムに対抗する方策の一つが、瞑想なのかなと最近思う。

以前も瞑想について書いたように、「行事ヨーガ」としての瞑想ももちろんそうなのだけれど、精神状態としての瞑想状態、一種の無我の境地というのは、心身の回復力が非常に高いと感じる。

自分自身、かなり脳疲労しやすい習慣を持っているように思っていて、プログラミングをしていたり、好きなYouTubeを観ているときは、回復力としては弱い状態に思う。

とはいえ、以前も書いたように特定の行動と瞑想状態というのは分離できるもので、一種のスタンスであるので、こうやってブログを新下駄配列で書いているときは自分はとても落ち着いた気持ちになれていて、そういう意味で「書く瞑想」というのが、自分の場合は新下駄配列で好きなことを気ままに打鍵しているときに実現されているように思う。

そういう状態というのは、とても心身ともに安心していて、回復力が高く、理想的な状態だと感じているけれど、おそらく人によってそれが何に該当するかは全く違うはず。例えば公園で汗かいて走っているときにそう思う人もいれば、逆に同じ動作で汗かくのが嫌で全くリラックスできない人もいる。マインドフルネスというのは一種のクオリア、つまり個々人の脳内感覚で、共有できそうで共有しがたい感覚だと、自分は思う。

意志力と回復力

一方で、マインドフルネスをいざというときに発揮するのは難しいという意見もよくみていて、自分自身も半分は同意するし、半分はそうでないと思う。

そもそも瞑想に見返りを求めることがナンセンスな気もしなくもないけれど、人間なので何かしらの行為に効果を求めるのは普通なことであって、マインドフルネスに癒やしとか脳疲労の回復とか、感覚の復活などの効果を求めるのは自然なこと。

ただ、そういう効果というのは、いざその効果が出てほしいときほど、実際は上手くいかないことが多い。それこそ、見返りを求めるばっかりに逆効果になっているのだと感じる。

これについては、意志力というか、これこそ運命めいたものが関わっていると自分は感じていて、無意識でこうあってほしいと自分が望むと、それが一種のアサーションとなって自分を操作することで、結果が一種の現実歪曲空間となって操作されているように思う。

意志力という言い方はあまり的を射てないかもしれず、結果的には自分の運命だと割り切る方がわかりやすいかもしれないけれど、そうした運命めいたものって、たいてい多くの意志力が関わっていて、それは必ずしも自分だけの意思ではなく、他人の意思かもしれないし、集団の意思、地球や別の生命体の意思かもしれない。ただ、自分の行動というのは、裏に多くの意志力が関わっていて、そういう意思に操作されていると自分は思う。

……つまり何が言いたいのかというと、マインドフルネスに見返りを求めて効果を発揮しようとすると案外難しく、でも、習慣として続けていることは、逆に意外なところで大きな効果を発揮するし、全体としてみると大きな影響がある。

マインドフルネスが回復力を発揮するのは事実だと思うけれど、回復力だけを求めるがばかりに、雑念が増えると、あまり本来の効果を生み出さなかったり、そもそも瞑想に集中できなかったり、瞑想状態になれなかったりする。これが、いざというときにマインドフルネスは役に立たないと言われるゆえんだと思う。

たしかに、ストレスフルな状態でマインドフルな状態に遷移させるのは相当に苦労するし、なかなか難しいところはあるけれど、それでもやはりそういうときに自動思考に陥らずに "思考の寸断" や客観性を生み出してくれるのは日々のマインドフルになろうという努力だと思うので、その瞬間瞬間で見返りを求めようというよりは、日々の修行の鍛錬がたまたまそのとき効果を出していると考える方がいいのだろうと最近は思う。