打鍵すること、無心になること、その楽しさ

今回の記事は少しメタな内容。打鍵について自分の思う精神性と思考整理。

打鍵を楽しくするために始めた新配列

自分がここ数ヶ月使っている配列、新下駄+Programmer's Dvorakを使い始めたきっかけは、自分が毎日打鍵している行為を、自分自身が楽しくないと感じていたことに、コロナ禍に入ってすぐに気づいたことだった。

思い立ってからは行動は早くて、Qwerty以外の配列をひたすら調べて、その時点で最高だと思うものをとにかく調べたり試して、しばらく使って微妙かもと思ったら変えてみたりの繰り返しだった。

その行為自体とても楽しいことで、正直その段階では何を打鍵するとかはあんまり関係なかったのだけれど、それから数ヶ月から一年以上が経って新配列に慣れてからも、特にこれを書きたいというよりも、とても楽しくなった打鍵行為自体を毎日とにかく楽しむようになった。

この間、コロナ禍の1,2年間というのもあり、自分の精神性自体だいぶ変わってきたところがある。

新配列に変えて気づいたこと

そもそもコロナ前もコロナ後も、一応プログラマーという仕事をしているので毎日たくさんの情報、文字に触れる。コロナ禍に入ってそれがさらに多くなり、多少自分自身を見直す機会ができたことで、打鍵方法そのものを見つめ直すようになった。

それでも不思議と最初に見直したのは、英語配列の方ではなく日本語配列。JIS、新JIS、薙刀式、親指シフトなど、数ヶ月かけていろいろ試して落ち着いたのが新下駄配列だった。

新下駄配列と出会って以来、本当に書く行為が楽しくなって、パソコンに向かう時間は格段に増えた。厳密には、以前もパソコンに向かってはいたものの、今ほど文字を書いてはいなかったと思う。今やすべてをNotionなどのデジタルメモに記録するようになり、元々やっていたタスク管理も随分とこまめに付けるようになった。そしてここ数ヶ月はようやく英語配列も見直して、Programmer's Dvorakにも慣れてきた。

こうして、以前とは全然違う次元で打鍵をするようになったのだけれど、実は一番変わったのはその過程で得た精神性ではないかと思う。

何より、新配列で打鍵をしている間は非常に心が落ち着くようになって、その特性を生かしてあえてQwertyを使う場面は分けている。普段はQwertyは全く使わず、自分がどうしてもある一線を越えても熱中したいとか、スピードを出したいというときに限って、Qwertyを使うようになった。

そういう瞬間は、短期的にはとても充実しているのだけれど、非常に疲れるので長期的は続かない。Qwertyで打つのは特別なときだけで、頻度的には一週間に一回あるかないかだと思う。特別に気合を入れるのはそれくらいの頻度で良い。

無心になると気付く変化

一方で、あえて時間をかけてでも新下駄配列やProgrammer's Dvorakを使いたいと思う日もあって、そういう日はたいてい、無心になりたいとき。

新配列の習得中のときに気づいていたのだけれど、無心になると非常に習得が早く、集中力も高い傾向にある。ある意味で、前述のQwertyを使う日と同じかもしれない。

新下駄配列やProgrammer's Dvorakは、習得中は非常に脳のリソースを使うので、余計な雑念があると全然打てないし、打つこと自体に集中しないとなかなか手になじまない。逆に、無心になって自分の打鍵ミスやいろんな感情から自分自身を切り離すと、何も考えずスムーズに打鍵が進むようになる。そしてそういう瞬間はたいてい、打鍵以外のいろんなことに気付くことができるので、キーボードの置き方を見直したり、椅子と画面の角度、設置方法を見直すきっかけになる。

無心というのは不思議なもので、無心なんだけど強く自我があるというか、こういうものを真我というのかもしれないけれど、普段考えている余計な雑念が消えて思考がクリアになる代わりに、それらに埋もれている本当に必要なことに気付くことができる瞬間がある。

感情を押し殺して、石のようになっているようにも感じるし、逆に普段よりも感覚を研ぎ澄ませているので何より人間らしいとも感じるし、そういう二律背反が一つに同居していて、無心というのは本当に不思議な状態だと思う。

無心になるというのは感覚を殺すことではなく、逆に感覚を敏感にすることだともいえるし、そうした感度を高度に制御していて、その塩梅を自由にできる瞬間ともいえるのかもしれない。

書く瞑想、書くマインドフルネス

そうして最近は何よりも文字を書いている瞬間が楽しいなと思えるようになって、何かを書いているときが一番無心になっている。

いままで、同じように無心でいられる瞬間というのは、音楽を聴いていたり、小説を読んでいたり、ある意味で受動的な瞬間の方が多かったようにも思うけれど、こうして書くという行為で無心になれるというのは、一種のマインドフルネスなのだろうと思う。

マインドフルネスって、座って行う瞑想や、ヨガ、歩く瞑想、食べる瞑想と幅広くその実践が存在するけれど、書くという行為にはいろんな意味があって、自分の思っていることを吐き出したり整理して楽になるという性質もあるし、何より書くこと自体の楽しさがある。ペンだったらペンを使って紙の上をサラサラ、カツカツ書いていく感覚の楽しさ、言葉を紡ぎ出す楽しさ。

打鍵も同様で、特に新下駄配列はまるでキーボードがしゃべっているかのように文字と音が連動していくので、自分の代わりにキーボードがしゃべっている感覚にもなるし、自分が頭で思っている内容に合わせてキーボードと文字と音が連動する楽しさがある。そして自分の速度に相当に追従してくる上に、どれだけ長く打鍵しても疲労感が少ないので、とても長時間その楽しさが持続する。書く内容に関わらず、その行為自体が無心で楽しい。これを瞑想といわないなら何を瞑想というのだろう。

直感で思うことを追い求める

最初に打鍵配列を変えようと思ったときにここまで想像していたかというと全くそうではないのだけれど、それでも、自分自身がパソコンに向き合う時間を楽しいものにしたいという動機から始めたのは今も最初も全く変わりない。でも、この結果を思い描いていたわけではなくて、あくまで結果論。自分はここまでくる過程自体が、辛い瞬間があったとしても日々楽しかった。

それは、自分が直感的にこうしたいと強く思ったことを、犠牲を払ってでも実現しようとしたからだとも思うし、そうではなくて単に直感的に楽しい未来を選択しようとしただけなのかもしれない。

けれど、打鍵配列に関わらず、何かを変えようということには必ず代償がつきまとうので、結果ばかりを求めずに過程を楽しむというのが大切。自分が今の配列に落ち着くまでいろんな配列を試して感じた、感覚的、体験的な経験は何にも代えがたいし、仮に今のようにスラスラと新配列で打てる状態にならなかったとしても、それは自分のなかで大きな糧になっていたときっと思う。

……さて、いつになくメタで詩的な内容になってしまったけれど、とにかく何でも先入観なく無心でやることは、何においても楽しいと最近思う。そしていろいろ遠回りして意外な結果になったとしても、その旅程自体あとから振り返ると素晴らしいものになるはずだと、自分自身を信じてトライし続けるのが良いのかなと、打鍵に限らず思う。