しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

無駄の価値

(書く) 瞑想と幸福感

自分の思考を垂れ流すというのは、自分以外にとって価値があったりするのだろうかと思ったりするけれど、このブログの趣旨が「書く瞑想」というのもあるし、最低限の推敲はしつつ、そのまま思考を垂れ流すことにする。

このブログでは何度も書いていることなのだけれど、自分は新下駄配列+Dvorakで思考整理しながら長文を書いているときが一番幸福感が高い。理由は全くわからないのだけれど、誰にも強制されず、瞑想という以外にハッキリとした目的を持たず、かつ身体感覚が快適な方向にもっていくというのは何にも代えがたい自由や幸福というのがあるのだときっと思う。

純粋にタイピングをしているときというのは、自分が打っている指の感覚や聞こえる打鍵音に集中することができるし、特に書きながら思考整理をしているときはただ純粋に書くことに集中しているので、たとえその結果出てきた文章が陳腐なものだったとしても、その時間のなかで体験する至福感や結果として得られた整理された脳内状態というのは、自分にとって何にも代えがたい。

思考整理とその価値

以前はこうした思考整理は自分にのみ価値があるものだと考えていたので、Notionなどのツールにただただ書きなぐっていたのだけれど、最近は少し考え方が変わって、いわゆる瞑想である座禅、只管打坐の場合も複数人で行ったりするし、自分はエッセイなどのとりとめのない文章を読むのは嫌いではないので、これだけネット上に価値のある情報が多くあるなかでたまに無価値なものがあっても良いだろうという考えのもと、いつしかブログに書くようになった。

ブログに書くという行為は自分しか読まない文章を書くときよりも多少緊張感があるのだけれど、そもそも書くという行為は記録が前提なので、どこかで他人に読まれる文章として書いているのではないかと思う。他方で、自分が他人に「リアクションしてほしい」と思う文章は全く違う趣向で書くし、文章を書くときのモチベーションというのは思ったより複雑なのかもしれない。

このブログではないのだけれど、以前はよくリアクションがほしくて投稿をしていたので、それなりに他人の存在を意識して文章を書いていたのだけれど、最近は自身のTwitterにしてもあくまで自分自身と向き合って書いているので、単なる記録としての価値の方が大きいかもしれない。どの瞬間にどんなことを意識していたか、思考していたか、やはりこれも自分にとっては価値あるもので、ではこれを見ている他人にとってどんな価値があるのかは正直わからない。

仮に受け取り側の他人に価値があるとすれば、それは小説などと同じで思考を追体験できるということなのかなと思うのだけれど、多分ただ長々とした文章というのは読むに辛いし、追体験したいと思う何かがあって初めて読もうと思うのではないかと思う。

普通や無駄の尊さ

価値のある文章やコンテンツというのは豊富にネット上や書籍上に存在している。SNSアルゴリズムもそうした方向にチューニングされているし、親しい関係性にある人以外の "どうでも良い投稿" というのは面白いのだろうかと思ったりもする。

でも自分自身は結構「普通」の投稿こそ読みたいなと思う方で、SNSによく上げられがちの多少脚色された、少し "盛った" コンテンツよりも、そのまんまのありのままの投稿が読みたいなと感じる。

自分が知らないだけなのかもしれないけれど、そういう普通の投稿や発言って、SNSやリモートワークでは触れる機会すらなくなりがちで、非常に尊いものだという感覚が自分のなかにはある。

コロナ禍の影響もあって自分はだいぶ長いことリモートワーク中心の生活をしているのだけれど、リモートワークというのは自然と無駄は排除される傾向にあり、その無駄の排除によって欠落するコミュニケーションロスは想像以上に大きい。意識してはいても無駄は自然となくなってしまうので、無駄というのはとても尊い

無駄は嫌われるし、普通というのも嫌われるのだけれど、そういう無駄や普通こそ実は大切なエッセンスであって、欠落してはいけなかったんだと気づかせてくれる分、リモートワークという体験を社会的に多くの人が経験したコロナ禍はそれなりに価値があったのだと思う。

時間というのは誰にとっても貴重なものであって、誰しもベストな使い方をしたいと思いながら過ごしている。それでも、無駄や普通には案外価値があるというのは、なんとも皮肉なものだなと思うし、日々瞑想していると、実はそういうパラドックスというのは多くあるのかもしれないと思う。

瞑想は最大の無駄?

無駄という観点でいうとそれこそ瞑想なんかは最大の無駄に違いない。ただただ座って何も考えない、ただ感覚を研ぎ澄ませて感じるだけというのは、一見本当に無駄なことのように思う。

でもそういう無駄な時間を多くとることで、思考は整理され、心は落ち着き、身体は整うというのは、人生の最大のパラドックスではないかと思う。

何もしないということは実はものすごく難しいことで、座禅をただ10分やろうというのも相当に勇気の要ることだと思うし緊張するし疲れることだと思う。たとえ10分でも尊いと思っていればいるほど、ただ10分座っているだけ、只管打坐をするというのは本当に勇気の要るし無駄に感じることだと思う。

でもそれだけ緊張感や疲労感があるということは、何もしていないというのは見た目だけだとわかる。きっと、身体というのは自分の思考の届かないところで、睡眠などと同じく、無意識下で本当に多くのことを行っていて、それを意識しようと必死に意識下に登らせるだけで、疲れるような、そんなすごいことを人間は毎日この瞬間にやり遂げているのだと思う。

自分は科学者ではないので瞑想で何が行われているとかは全くわからないのだけれど、それでもその一見全くの無駄に思える瞑想が今の自分にとっては何事にも換えられない価値をもっているのは確かだし、それがリモートワークでいうところの無駄と同義に近いんじゃないかと思う自分の直感も、あながち間違ってはいないのではないかと思う。