しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

行動においての心理的閾値

過去の記事で、感情におけるドベネクの桶の話や、行動における慣性についての話を書いた。

特に行動における慣性に関連すると思うのが、行動に関する「閾値」というのがあると思う。

例えば、体育の授業があって、最初はかったるいなと思って始めたものの、しばらくすると案外楽しいなと思えてくる。

仕事でも、朝起きて出勤して、嫌々仕事を始めたものの、しばらくするとなんとも思わなくなって、コーヒー飲みつつでも仕事に没頭する。

そうしたことは、行動における慣性でもあり、一方で閾値でもある。

何かを始めるとき、どうしても最初は苦しくて仕方がなく、やりたくないものである。それでも、ある程度の時間や閾値を超えると、その行動自体が慣性を持つようになり、楽しくなる。

図にするならば、以下のようにクロスフェードしているイメージだろうか。

いや、自分の感覚的にはこうスムーズなものではない。縦軸に、始めたばかりの行動についての嫌々度をプロットするなら、次のようになると思う。

行動してある時間、だいたい5分から10分くらいで、最初のやりたくないピークが訪れる。これは、例えば心理学の他の例でいう、怒りの閾値や、曝露療法での不安の閾値と一致するように思う。

そしてそのピークをなんとか乗り越えると、グッとやりたくない度が減るものの、何回かまた波がありつつ、徐々にだんだんと嫌々度は下がり、楽しくなってくる。

そしてまたさらに進むと、ランナーズハイのような状態から、またしんどくなったり、波を繰り返しつつ、最後にはだんだんと嫌々度が高まってくる。途中の状態を省いて最後を追加するとこんな感じの図になるだろうか。

もし途中を省略せずに書くことを試みると、きっと最初と同じような急なピークが途中途中にきて、これを繰り返すようなものになると思う。

実際はだんだんと嫌々度のベース部分は疲労度に比例して高くなるものだと思うけれど、概ね心理的な印象はこんな感じだと思う。

言いたかったことは何かというと、この閾値を超えることで、想像以上にその後は楽しくなることが多いということ。

何かへの心理的抵抗というのは当然起こるものであって、最初は辛く、急峻な嫌々カーブを描くことになるけれど、大抵のことはその山を超えると苦痛は和らぐ。

これは例えば長距離走や散歩、仕事、趣味などにおいて、ある程度一般的な事実ではないかと思う。

スランプを抜け出る方法

ただ、前述のことは、あくまで平常な状態である場合だと但し書きをしておきたい。

例えば自分は一度検査で72時間絶食試験というものをやったことがあるけれど、空腹度についての心理的な印象は似たようなカーブを描き、だんだんと空腹度が強くなった(糖新生といわれる現象が関わっているらしいが専門家ではないので割愛)が、身体的・心理的に平常ではない場合はこの限りではなく、抵抗感はより強く出るし、1つ目の最も強い閾値を超えた後のカーブもこの限りではない。

スランプというのは大なり小なりあるだろうけれど、風邪をひいたり、何らかの心理的ショックを受けたりしたあとに、こうした異常な状態というのを誰しも経験することと思う。

それでも、あくまで個人的な印象ではあるけれど、病気やストレス等の急性期を乗り切ったあとの心理的閾値のカーブは、閾値の大小や時間の大小はあれど、実は急性期以前の平常時と似たような形状であると感じる。

なにごとも急性期においてはただ休息するのが最も効果的であると思うが、そうした時期を乗り越えてなにかに挑戦したいと思ったとき、この最初の閾値が恐怖となる。そして、特に病み上がりのときはこの閾値を乗り越えることが何より辛く感じる。

おそらく人間が不安を抱くのは、平常時はこうした閾値を難なく乗り越えられることがわかっているものの、何かの急性期にそうでない瞬間を一瞬経験し、再度安定期になったときに、とても不安に感じるのだと思う。

こうした状態の人々に安心感をもたらすのは簡単ではないと思うのだけれど、少しだけ身体に耳を傾けながら、ちょっとずつ行動を行えば、大丈夫という感覚は少しずつ付いてくるし、この最初の閾値を乗り越える勇気も自然と出てくる。

問題は、そうした勇気をどうやって身につけるのか、ということ。これが、例えばスランプを脱出する鍵にもなる。

これについては、少しでも、他のことに比べて安心できることから部分的に不安感をなくすほかない。

例えば同じ運動でも、室内で行う場合と屋外で行う場合で違うだろうし、仕事か趣味でも全く心理的な抵抗は異なるはず。

また、人間は箱根駅伝のような運動している映像を見たり、スラムダンクのようなスポーツ漫画を見ているときは実は筋肉にも多少なり影響があると言われていて、心理的にそうしたちょっとしたこともヒントになる。

したがって、自分がスランプを抜け出るときに、休息が必要か、勇気が必要か、あるいはその他の知恵が必要なのかは、その時々の感覚に頼るほかない。

自分がどの状態にあるのか、少しずつ洞察を重ねて、それに対する行動として、ちょっとずつ様々な実験を重ね、失敗を繰り返す。そのためのエネルギーがないときは、休んだり、読書したりする。

……そう考えると、結局はスランプであろうが平常時であろうが、行うべき行動というのは何も変わらないのかもしれない。