しさくろく

試作録、思索録、詩作録、…etc

零点

以下ポエム。

数学で、ゼロ(0、零)が認められるまでには長い歴史があったのだそう。

gigazine.net

例えば仏教でも無我の境地、無心などという表現がされているが、無の意味は多少違う気はするものの、きっと画期的な発見だったんだろうと思う。

ゼロというのは、グラフで表すと、マイナスでもプラスでもないし、かつマイナスでもプラスでもある原点のことを指す。

美しい。美しいけれど、例えばこれが、xは貯蓄、yは体力としたら、ちょっと不安にならないだろうか。

自然と、少しでもプラスにあろうとするのではないかと思う。

ただ、どれだけプラスであれば良いのか、どこまでいけば余裕があると思えるのか、正直わからない。

このグラフでは上限や下限はないように書かれているけれど、もし部屋の体積や蓄えに限界があるとすれば、ヒトにもよるだろうけど30%とか50%とかを目指そうとするのではないだろうか。

抽象的でとりとめのない話のように感じるけれど、じゃあ、なにがマイナスとか、なにがプラスとか、下限とか上限ってどうやって決めたのだろう。

例えば自分の行動範囲ってどこまで?普段歩いている範囲?それとも今まで行ったことがある最も遠いところ?

マイナスについてはどうだろう。向かう方向だとしたら、どこまでもマイナスもプラスもある気がするし、借り入れ可能額ならできるだけたくさんあったほうがいい気もするし、借金ならゼロが良いようにも感じる。

実は借金があるというのは、借り入れができる、信用があるということの証明でもあるし、マイナスだからダメだとか、これくらいが適切とか、主観でしか決められない。

なにか比較対象がないと比べることもできないし、その比べる対象も、無限にあるんだから、結局は決められない。

ゼロというのは基準点

ということは、ゼロというのは、ゼロ自体もこれが絶対的な位置ということは本来はなくて、ゼロ自体も相対的な基準点でしかないということになる。

例えば今いる位置を仮にゼロにするとか、財布の中身になにも入ってなかったらゼロとか、そういう一つの基準。

ということは、ゼロが決められるってことは何ごとでも一歩目が決められたということになる。やった。(0歩目というべき?)

それに、ゼロがあるというのは、方向とかの概念があるということで、プラスやマイナスという概念があるということで、ゼロを決めるというのは実は大変な作業。

数学でもゼロというのはいろんな意味があって、それぞれのゼロを決めるのにきっとたくさんの歴史があったのだと思う。

ある点に立つ

この記事のタイトルを「ゼロ」にしなかった理由。

ゼロは基準であって相対的なので、どの点であってもゼロになり得る。じゃあ、点を決めることが大事で、ある点に立って考えれること自体がすごいんじゃないかと。

前の記事で挙げたスティーブ・ジョブズの演説でも、「点と点を繋ぐ」という言葉があるけれど、点と点を繋ぐにはまず点がある必要があって、点を認識する必要がある。

人間は一見なにもしていないように見えても、その場所に存在しているだけで点であって、住んでいる地域、立場、環境、いろんな観点からグラフを見つけて点を打つことができる。

だから、なにもしなくても点はあるのであって、座標点というのは長さも大きさも全くないのだけれど、それでもそこに点が確実にある。

人間に限らずすべてのものにとってそうで、そこにはいろんな点があって、それらは別の次元でいろんな大きさや長さの属性を持っている。

それらをどんな観点から並べて、切り取って見るかによって、見方は様々で、プラスもマイナスも軸も次元もなんでも作れるのだけど、点は必ずある。

なにもしていないように見えることだって立派に存在しているし、その点だってよく拡大して見たら宇宙レベルに膨大な小さな点の集まりだったってこともあるかもしれない。

長さがゼロというのも主観的で作為的なのだから、位置に限らず長さも大きさも相対的なものであって、実は認識できていなかっただけかもしれないし、ある点の中にも外にも、思いもしなかった無限の尺度や、まだ知らない次元があるかもしれない。

だからこそ、すべてのものは面白い。無闇矢鱈に細工しなくたって、そのままで十分に面白いし、美しい。

置かれた場所で咲くというのは、そういうことだと思う。